2008年 03月 25日
卒業式: 大学も学習指導要領?
朝起きたら、天気予報が「積雪がゼロになりました」と言っていました。今朝の5時頃に札幌気象台にある観測点の雪がなくなったそうです。
このところ3月としては異常な暖かさが続き、今日で最高気温が5日連続で10度を超え、それは3月としては1891年以来、117年ぶりなのだそうです。更に気温は上がり続け、最高気温が15.1度になり、こちらも117年ぶりの高温で、3月としては132年の観測史上で2番目という記録的な温度だそうです。
最近、なんだか目や鼻がムズムズすると思っていたら、道立衛生研究所の話では3月12日頃からハンノキの花粉が本格的に飛んでいるとのこと。ひょっとすると、私はそれに反応しているのかもしれません。この暖かさだと、この後4月から北海道の花粉症の最大原因となるシラカバも大量の花粉を飛ばす可能性が高く、要注意です(STVテレビニュース)。
例年ならば、雪が降ることも珍しくないのですが、今日は卒業式でした。おそらく、北海道大学始まって以来の暖かい卒業式だったのではないでしょうか。今やすっかり定着した華やかな衣装をまとった卒業生達が、大学中にあふれかえり、春休みで静かだったキャンパスにも一気に春が訪れました。
そして、明日から入学式までの数日間はひととき静かな大学になりますが、来週はまた入学式ウィークになり、怒濤の一年が始まることになります。
そんな中、またまた「それって大学か?」と言われそうなニュースです。
大学のカリキュラム、学部ごとに到達目標を国策定へ
午後には、これに追い打ちをかけるような中教審の提言がまとまったと報道されています。
大学淘汰「避けられない」 質向上求め中教審提言
大学でも、こういう決まり切った高校のような教育をするのでしたら、今のように大学教員は研究者である必要は必ずしもなくなるでしょうから、高等教育のための大学と、研究者養成のための大学院を分けてはどうでしょう。そして、もし本気でそれをやろうというのでしたら、いたずらに選抜・淘汰するのではなく、むしろ積極的に教育中心の教員と、研究中心の教員を「増やすように」大学改革をすれば、たくさんのポスドクも吸収でき、高等教育の質の向上も図れ、一石二鳥になるのですが、どうでしょうか。>文科省の皆さん
それをせずに、大学の選抜・淘汰を続けると教育も研究も取り返しがつかないことになります。というか、もうすでに取り返しのつかないところまで来ているという判断も可能なのかもしれないと思う今日この頃です。
【追記】
vikingさんのところに関連エントリーが出ました。
「大学のカリキュラムに到達目標を」という案はとんでもない愚策か、それとも大学教育の現状を反映した痛烈な皮肉か
ktatchyさんのところにも出ています。
どんどん「高校化」する大学
このところ3月としては異常な暖かさが続き、今日で最高気温が5日連続で10度を超え、それは3月としては1891年以来、117年ぶりなのだそうです。更に気温は上がり続け、最高気温が15.1度になり、こちらも117年ぶりの高温で、3月としては132年の観測史上で2番目という記録的な温度だそうです。
最近、なんだか目や鼻がムズムズすると思っていたら、道立衛生研究所の話では3月12日頃からハンノキの花粉が本格的に飛んでいるとのこと。ひょっとすると、私はそれに反応しているのかもしれません。この暖かさだと、この後4月から北海道の花粉症の最大原因となるシラカバも大量の花粉を飛ばす可能性が高く、要注意です(STVテレビニュース)。
例年ならば、雪が降ることも珍しくないのですが、今日は卒業式でした。おそらく、北海道大学始まって以来の暖かい卒業式だったのではないでしょうか。今やすっかり定着した華やかな衣装をまとった卒業生達が、大学中にあふれかえり、春休みで静かだったキャンパスにも一気に春が訪れました。
そして、明日から入学式までの数日間はひととき静かな大学になりますが、来週はまた入学式ウィークになり、怒濤の一年が始まることになります。
そんな中、またまた「それって大学か?」と言われそうなニュースです。
大学のカリキュラム、学部ごとに到達目標を国策定へ
文部科学省は、人文系、社会科学系、自然科学系といった学部ごとのカリキュラムに、学生が卒業までに習得すべき「到達目標」を導入することを決めた。悪い冗談を聞いているような気がしますが、おそらく文科省としては真面目なのでしょう。こんな目標を定めたら、大学卒業共通テストをやらなければ公平性を保てなくなるはずです。さらに、それに補助金という予算配分が絡んでくるとしたら・・・・。
到達目標を取り入れた大学には補助金を上乗せするなどして実施を促したい考えだ。
10年度までに具体的な目標を策定するよう(日本学術会議に)依頼する。たとえば経済学では「経済学の概念と法則を説明できる」といった目標が、物理学では「問題の原理と法則を突き止める能力がある」などの目標が設定されることになる。
午後には、これに追い打ちをかけるような中教審の提言がまとまったと報道されています。
大学淘汰「避けられない」 質向上求め中教審提言
大学志願者数と定員が同数となる「大学全入時代」の到来を「少子化の中、学士レベルの能力を備えた人材の供給は重要」と積極評価。その一方で「質の維持・向上の努力を怠り、社会の負託に応えられない大学の淘汰は避けられない」と警告した。こっちは、入学前試験の提案ですが、こちらも大学淘汰をうたっていますので、いずれも大学を選別・淘汰するための基準を示したものであると読み解くべきでしょう。
その上で、質向上の方策の1つに、大学に入学する際の高校生の学力をみる手段として、高校と大学が協力して実施する「高大接続テスト」(仮称)の創設を検討することなども求めた。
大学でも、こういう決まり切った高校のような教育をするのでしたら、今のように大学教員は研究者である必要は必ずしもなくなるでしょうから、高等教育のための大学と、研究者養成のための大学院を分けてはどうでしょう。そして、もし本気でそれをやろうというのでしたら、いたずらに選抜・淘汰するのではなく、むしろ積極的に教育中心の教員と、研究中心の教員を「増やすように」大学改革をすれば、たくさんのポスドクも吸収でき、高等教育の質の向上も図れ、一石二鳥になるのですが、どうでしょうか。>文科省の皆さん
それをせずに、大学の選抜・淘汰を続けると教育も研究も取り返しがつかないことになります。というか、もうすでに取り返しのつかないところまで来ているという判断も可能なのかもしれないと思う今日この頃です。
【追記】
vikingさんのところに関連エントリーが出ました。
「大学のカリキュラムに到達目標を」という案はとんでもない愚策か、それとも大学教育の現状を反映した痛烈な皮肉か
ktatchyさんのところにも出ています。
どんどん「高校化」する大学
vikingさんのところに関連エントリーが出ました。追記をご覧下さい。
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ktatchyさんのところにもあります。追記をごらんください。

こういう愚策(?)が出てくる前に、大学側が努力して、社会に有用な学生を育てるシステムを構築するべきではなかったのだろうか。自らの無策を棚に上げて、お上に毒づいているだけでは、この先愚策を受け入れるにしても受け入れないにしても、いい方向には進んでいかないと思う。

大学はもうまとまって行動する能力を失っているんでね。
>大学側が努力して、社会に有用な学生を育てるシステムを構築するべきではなかったのだろうか。
>大学はもうまとまって行動する能力を失っている
おっしゃるとおりで反論するつもりはないのですが、この先大学を含めた「日本の教育」が良くなるかどうかは、国民の声がどのくらい反映されていけるかで決まってくると思います。少なくとも国立大学は大学人のものでも、政府・文科省のものでもなく、国民のものなのですから。
>大学はもうまとまって行動する能力を失っている
おっしゃるとおりで反論するつもりはないのですが、この先大学を含めた「日本の教育」が良くなるかどうかは、国民の声がどのくらい反映されていけるかで決まってくると思います。少なくとも国立大学は大学人のものでも、政府・文科省のものでもなく、国民のものなのですから。

現状では、学生が「学問を体系的に学べていない」という側面は確かにあると思います。日本では、高校までやってきた内容と大学以上で学ぶ内容にあまりにも差がありすぎますから(「科目」分け見ても分かりますよね)。
「自由に自分で選んで自分なりの体系を見出すのが大学での勉強方法」という考え方ももちろんあるでしょう。しかし、これだけ大学進学が一般化してしまうと、それだけの時間的・経済的・精神的余裕を持てない人々も増えてくるし(自分で体系を見出すには時間かかりますからね)、大学を学問追求の場というよりも就職のための方便の機関としてしかとらえない
学生(そしてその親)がよくもわるくも増えてきます。これから入学者が減っていく中、「うちの大学に入ると、0からはじめてもこれだけのことが体系的に学べますよ」とアピールするのは、間違っていないでしょう。
けれど、その解決策が上からの「到達目標」設定とは、なんだか気が抜けてしまいます。しかも、補助金付きとは。完全に国にコントロールされてしまいますね。
「自由に自分で選んで自分なりの体系を見出すのが大学での勉強方法」という考え方ももちろんあるでしょう。しかし、これだけ大学進学が一般化してしまうと、それだけの時間的・経済的・精神的余裕を持てない人々も増えてくるし(自分で体系を見出すには時間かかりますからね)、大学を学問追求の場というよりも就職のための方便の機関としてしかとらえない
学生(そしてその親)がよくもわるくも増えてきます。これから入学者が減っていく中、「うちの大学に入ると、0からはじめてもこれだけのことが体系的に学べますよ」とアピールするのは、間違っていないでしょう。
けれど、その解決策が上からの「到達目標」設定とは、なんだか気が抜けてしまいます。しかも、補助金付きとは。完全に国にコントロールされてしまいますね。

「大学はもうまとまって行動する能力を失っている」
先日、独法化の舞台裏を知る方にお話をうかがったところ、独法化により国からの大学(院)への介入を水際で防ぐという意味合いもあったそうです(具体的にはどういうことかわかりませんが)。しかし、各学長の足並みが揃わず、その隙に主導権を文科省にとられたとか。
>国立大学は大学人のものでも、政府・文科省のものでもなく、国民のもの
確かにその通りですが、その国民は、案外、今回の文科省による「達成目標」設定を支持するんじゃないかと思いますよ。多くの人々は、「投資に返ってくる対価」を分かりやすい形で示されることを好むからです。これまで国民からの声で大学のあり方が変わった例などあるんでしょうか? やはり大学から「あるべき大学の姿」を打ち出すべきだと思います。
先日、独法化の舞台裏を知る方にお話をうかがったところ、独法化により国からの大学(院)への介入を水際で防ぐという意味合いもあったそうです(具体的にはどういうことかわかりませんが)。しかし、各学長の足並みが揃わず、その隙に主導権を文科省にとられたとか。
>国立大学は大学人のものでも、政府・文科省のものでもなく、国民のもの
確かにその通りですが、その国民は、案外、今回の文科省による「達成目標」設定を支持するんじゃないかと思いますよ。多くの人々は、「投資に返ってくる対価」を分かりやすい形で示されることを好むからです。これまで国民からの声で大学のあり方が変わった例などあるんでしょうか? やはり大学から「あるべき大学の姿」を打ち出すべきだと思います。

個人的には本当に学びたい人間に開かれているのが「あるべき大学の姿」だと思うので……こんなのはどうでしょう。
高校から大学入試を経て進学してくるのとは別枠で
半年毎に一定数の入出学を許可します。
・卒業の概念は無し(大学の卒業生とはみなさない)
・聴講科目は半年毎に自由に選択できる
・学費は選択した講義数に応じて払う
要するに大卒の資格なんてやらないし面倒見ないけど、
金払えば好きなだけ勉強していいよというスタンスです。
続きます
高校から大学入試を経て進学してくるのとは別枠で
半年毎に一定数の入出学を許可します。
・卒業の概念は無し(大学の卒業生とはみなさない)
・聴講科目は半年毎に自由に選択できる
・学費は選択した講義数に応じて払う
要するに大卒の資格なんてやらないし面倒見ないけど、
金払えば好きなだけ勉強していいよというスタンスです。
続きます

少なくても大学側には、
授業料の確保や講師数の調整等の利点があります。
そしてこのような形での数年の在学なら
経歴の穴としてマイナス視されることも少ないでしょう。
トピックにあるような政策が出てくる根本には、
出生率の低下による(優秀な)学生の絶対数の減少という現実があります。
大学の淘汰は一つの方向ですが、
アカデミアの衰退という現実の追認にしか繋がらないでしょう。
企業はもう十年近く前から、優秀な人材のみを正社員として囲いこむ方向で努力を続けています。
これに対抗するには、
大学側にも優秀な人材を企業から引き抜く位の覚悟が必要だと思うのですがどうでしょうか。
授業料の確保や講師数の調整等の利点があります。
そしてこのような形での数年の在学なら
経歴の穴としてマイナス視されることも少ないでしょう。
トピックにあるような政策が出てくる根本には、
出生率の低下による(優秀な)学生の絶対数の減少という現実があります。
大学の淘汰は一つの方向ですが、
アカデミアの衰退という現実の追認にしか繋がらないでしょう。
企業はもう十年近く前から、優秀な人材のみを正社員として囲いこむ方向で努力を続けています。
これに対抗するには、
大学側にも優秀な人材を企業から引き抜く位の覚悟が必要だと思うのですがどうでしょうか。

学部レベルであれば標準的な到達目標があっていいと思います。それは、それぞれの学問に、定番ともいうべき教科書があって、それを読むことが初学者のやるべき第一歩だというようなものです。すでに医療系ではコアカリキュラムといってそういった取り組みがなされており、それをほかの学問にもちこもうというのが、この施策の趣旨なのでしょう。
またstochinai先生たちの議論だと、まるで文科省が到達目標を策定するとなっていますが、実際は文科省が日本学術会議に付託して、それぞれの分野の学会に、到達目標の検討してもらうとなっています。つまり、到達目標を定めるのは、stochinai先生やアカデミア側の人たちともいえるわけです。
ただ日本学術会議は、ポスドク問題にも正面から取り組まないような、
いまやたんなる学界の既得権益集団ともいえる集団であって、本当に学生も含めた大学全体のために行動してくれるか不安を抱かせますが、これは学界の大御所一人一人の認識の問題でしょう。
またstochinai先生たちの議論だと、まるで文科省が到達目標を策定するとなっていますが、実際は文科省が日本学術会議に付託して、それぞれの分野の学会に、到達目標の検討してもらうとなっています。つまり、到達目標を定めるのは、stochinai先生やアカデミア側の人たちともいえるわけです。
ただ日本学術会議は、ポスドク問題にも正面から取り組まないような、
いまやたんなる学界の既得権益集団ともいえる集団であって、本当に学生も含めた大学全体のために行動してくれるか不安を抱かせますが、これは学界の大御所一人一人の認識の問題でしょう。
by stochinai
| 2008-03-25 21:18
| 大学・高等教育
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