2008年 07月 26日
クジラを追って半世紀
ずいぶん前に一冊の本をいただいていたのですが、なかなか読めずにいました。先日の、名古屋往復に読もうと思っていたのですが、読破できませんでした。今日までかかってようやく読了です。
大隅清治著
クジラを追って半世紀 - 新捕鯨時代への提言 -
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230ページほどの本ですが、最後に20ページもの文献リストがついており、一般向けの本であるにもかかわらず、著者自らが「学者」であることを強く意識していることがわかります。
敗戦直前に大学にはいり、ひょんなことからクジラの研究をすることになった著者の研究人生が、そのまま戦後の日本の捕鯨の歴史と完全に重なっており、現場にいた証人が語る日本の捕鯨および鯨類研究の「航海日誌」とでも呼べる、貴重な記録です。丁寧に記載された何十人もの登場人物の名前は、我々第三者には単なる符号以上の意味を持ちませんが、それぞれの方々がそれを目にした時、著者とのつながりを思い起こさせてくれるメモとなっているはずです。
なぜクジラの研究者になったのかを語る部分では、あっけないほどに成り行きでそうなったことが告白され、それにもかかわらずその後50年もクジラ一筋の研究を続けて来られたという経緯は、外の人にはわかりにくいことかもしれませんが、同じ動物学研究を続けてきた私も、自分のことを振り返ったり、まわりを見渡したりしてみても、意外とそういういきさつを持って、一生涯あることを研究し続けるという人が多いことを実感しています。研究者って、そういうものなのかもしれません。
本の内容で動物学研究について書かれたところは少ないのですが、「クジラの処女懐胎?」や、「私のマッコウクジラ研究」は、とても興味深く読ませていただきました。特に、最後に近いところで登場する「先祖返りをしたイルカ」のところは、私が最近標榜している進化発生学に関係が深いところで、私も講義でたびたび取り上げている話題でもあり、またネタをふくらませることができたという収穫もありました。
私が子どもの頃は、肝油や龍田揚げ、ベーコンなどでさんざんクジラにはお世話になっており、栄養失調にならずにすんだのもクジラのおかげだったかもしれません。小学校の頃に何度も見せられた、クジラは捨てるところのない究極の動物性資源であるという図は今でも覚えています。それが、乱獲による資源の急激な減少と、国際的管理の失敗による迷走、さらにはその後に起こるクジラ愛護運動によって、今や水産業としてのクジラは壊滅的状況にあります。
著者である大隅さんは、科学者の目から見て、冷静に乱獲を反省しておられますが、同様に科学者の目から、クジラ資源が回復していることや、その状況の中での感情的な反捕鯨運動への批判をしています。そして、明言して書かれてはいないものの、国際政治や日本の政治が混乱を極め、正しいクジラ資源の利用がされていないことにも歯がゆい思いをされていることははっきりと伝わってきます。
大隅さんが考えておられるように、国際的な協力体制の下、科学者を中心にクジラ資源を科学的にコントロールすることができれば、乱獲もまた必要以上の「保護」も避けられるのかもしれませんが、今やクジラ問題は生物学を越えた国際政治問題になってしまっているのだと思います。
そんな中で、私が子どもの頃にも言われていた「クジラの海洋牧場計画」には、本気で期待したいと思いました。クジラが家畜化できたならば、ウシと同じような存在になり、反捕鯨勢力も強くは反対できないはずですから、是非とも本気で研究をしていただきたいものです。
大隅さんが、研究一筋の方だということは、この本の中で家族のことに触れたところが、奥様について書かれたたった2カ所であるところからも、うかがい知ることができます。あるいは、とても照れ屋なのかもしれません。私が、この本を読みたいと思った動機のひとつであるお嬢さんのことについての記述がまったくなかったというところは、逆に微笑ましくも思えました。
実は、そのお嬢さんとは誰あろう、あの仙台通信さんなのです。(献本、ありがとうございました。)
また、文献リストを見ると、1957年までは木村清治さんだったものが、1958年から大隅清治さんになっています。リストの最後に、さりげなく「3, 結婚に伴い、1958年に「木村」から「大隅」に改姓した」と書いてありました。
ある生物学者の波瀾万丈の一代記なのですが、まだ終わっていません。
参考: 大隅典子の仙台通信 『クジラを追って半世紀ー新捕鯨時代への提言』
大隅清治著
クジラを追って半世紀 - 新捕鯨時代への提言 -
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230ページほどの本ですが、最後に20ページもの文献リストがついており、一般向けの本であるにもかかわらず、著者自らが「学者」であることを強く意識していることがわかります。
敗戦直前に大学にはいり、ひょんなことからクジラの研究をすることになった著者の研究人生が、そのまま戦後の日本の捕鯨の歴史と完全に重なっており、現場にいた証人が語る日本の捕鯨および鯨類研究の「航海日誌」とでも呼べる、貴重な記録です。丁寧に記載された何十人もの登場人物の名前は、我々第三者には単なる符号以上の意味を持ちませんが、それぞれの方々がそれを目にした時、著者とのつながりを思い起こさせてくれるメモとなっているはずです。
なぜクジラの研究者になったのかを語る部分では、あっけないほどに成り行きでそうなったことが告白され、それにもかかわらずその後50年もクジラ一筋の研究を続けて来られたという経緯は、外の人にはわかりにくいことかもしれませんが、同じ動物学研究を続けてきた私も、自分のことを振り返ったり、まわりを見渡したりしてみても、意外とそういういきさつを持って、一生涯あることを研究し続けるという人が多いことを実感しています。研究者って、そういうものなのかもしれません。
本の内容で動物学研究について書かれたところは少ないのですが、「クジラの処女懐胎?」や、「私のマッコウクジラ研究」は、とても興味深く読ませていただきました。特に、最後に近いところで登場する「先祖返りをしたイルカ」のところは、私が最近標榜している進化発生学に関係が深いところで、私も講義でたびたび取り上げている話題でもあり、またネタをふくらませることができたという収穫もありました。
私が子どもの頃は、肝油や龍田揚げ、ベーコンなどでさんざんクジラにはお世話になっており、栄養失調にならずにすんだのもクジラのおかげだったかもしれません。小学校の頃に何度も見せられた、クジラは捨てるところのない究極の動物性資源であるという図は今でも覚えています。それが、乱獲による資源の急激な減少と、国際的管理の失敗による迷走、さらにはその後に起こるクジラ愛護運動によって、今や水産業としてのクジラは壊滅的状況にあります。
著者である大隅さんは、科学者の目から見て、冷静に乱獲を反省しておられますが、同様に科学者の目から、クジラ資源が回復していることや、その状況の中での感情的な反捕鯨運動への批判をしています。そして、明言して書かれてはいないものの、国際政治や日本の政治が混乱を極め、正しいクジラ資源の利用がされていないことにも歯がゆい思いをされていることははっきりと伝わってきます。
大隅さんが考えておられるように、国際的な協力体制の下、科学者を中心にクジラ資源を科学的にコントロールすることができれば、乱獲もまた必要以上の「保護」も避けられるのかもしれませんが、今やクジラ問題は生物学を越えた国際政治問題になってしまっているのだと思います。
そんな中で、私が子どもの頃にも言われていた「クジラの海洋牧場計画」には、本気で期待したいと思いました。クジラが家畜化できたならば、ウシと同じような存在になり、反捕鯨勢力も強くは反対できないはずですから、是非とも本気で研究をしていただきたいものです。
大隅さんが、研究一筋の方だということは、この本の中で家族のことに触れたところが、奥様について書かれたたった2カ所であるところからも、うかがい知ることができます。あるいは、とても照れ屋なのかもしれません。私が、この本を読みたいと思った動機のひとつであるお嬢さんのことについての記述がまったくなかったというところは、逆に微笑ましくも思えました。
実は、そのお嬢さんとは誰あろう、あの仙台通信さんなのです。(献本、ありがとうございました。)
また、文献リストを見ると、1957年までは木村清治さんだったものが、1958年から大隅清治さんになっています。リストの最後に、さりげなく「3, 結婚に伴い、1958年に「木村」から「大隅」に改姓した」と書いてありました。
ある生物学者の波瀾万丈の一代記なのですが、まだ終わっていません。
私の最大の望みは、新しい、持続的で、日本型の捕鯨の創造である。それが実現するまでは、死ぬに死ねないのが今の心境である。
参考: 大隅典子の仙台通信 『クジラを追って半世紀ー新捕鯨時代への提言』
Commented
by
osumi1128 at 2008-07-30 00:19
stochinaiさま、父の拙著を取り上げてくださいまして誠に有難うございました。メールしましたら「どうぞ宜しくお伝え下さい」とのことでした。
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by stochinai
| 2008-07-26 18:22
| 生物学
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Comments(1)