2008年 09月 15日
こちら側から見た歴史
今日は、「旧盛岡藩士桑田の会北海道支部定期総会」でした。桑田の会は一子相伝で権利を承継していくことになっており、世代が変わっても権利者が増えない仕組みで運営されている会です。今回は、私が初めて承継者として参加させていただくことになりました。
昨年同様、桑田の会理事の下山さんと盛岡桑田株式会社の専務取締役をお迎えしての会でしたが、桑田の会の由来へとつながる下山さんの「戊辰戦争の話」はとてもおもしろかったです。ほんの150年くらい前の話で、しかも我々の先祖が登場してくる話ですから、いわゆる「日本史」のお勉強とはまったく違って興味津々で伺うことができました。
その中で、強く感じたことは歴史などというものは教科書に書いている「正史」以外にも、その場に居合わせたあるいは居合わせなかった人の数と同じだけの「自分史」があるのだということです。
盛岡桑田の会が発足するきっかけとなったのは、盛岡藩のお取りつぶし(版籍奉還)のもととなる戊辰戦争の中で行われ、敗北した秋田藩との戦いです。それを指揮した楢山佐渡という家老は、腐敗する薩長の指導者たちを見て、あえて滅び行く幕府の側についたのは止むに止まれぬ「武士道」からだったというのが、盛岡藩側から見た歴史です。

賊軍を指揮したとして、「切腹の形をとった事実上の刎首」になったと歴史書には書かれていますが、盛岡藩から見ると「刎首とは言われているが、実際には切腹を許された」とされています。

そして、盛岡を追われることとなった盛岡藩士のうち、4000名は武士を廃業することを選びますが、残りの1800余名は藩として白石への減転封を課せられます。現在は1200余名くらいしか把握されていないそうですが、白石藩は盛岡藩移動のとばっちりを受けて、札幌市の白石区へと移住してきたのだそうで、白石の方には「先祖がご迷惑をおかけしました」とお詫びしなければなりません。
それはさておき、その後白石から盛岡へ帰ることを許された藩士たちの生活を支えるために創設されたのが桑田の会なのだそうで、そういう話を聞かされると歴史にまったく弱い私にとっても日本の歴史がグンと身近に感じられます。

負け組の側から見た幕末の歴史というものが、いわゆる日本史とはまったく違うものであっても、それは至極当然だろうと「新しい日本の歴史」の見方を教えられた一日でした。
来年は、盛岡桑田の歴史のお話が聞けるそうなので、今から楽しみです。
昨年同様、桑田の会理事の下山さんと盛岡桑田株式会社の専務取締役をお迎えしての会でしたが、桑田の会の由来へとつながる下山さんの「戊辰戦争の話」はとてもおもしろかったです。ほんの150年くらい前の話で、しかも我々の先祖が登場してくる話ですから、いわゆる「日本史」のお勉強とはまったく違って興味津々で伺うことができました。
その中で、強く感じたことは歴史などというものは教科書に書いている「正史」以外にも、その場に居合わせたあるいは居合わせなかった人の数と同じだけの「自分史」があるのだということです。
盛岡桑田の会が発足するきっかけとなったのは、盛岡藩のお取りつぶし(版籍奉還)のもととなる戊辰戦争の中で行われ、敗北した秋田藩との戦いです。それを指揮した楢山佐渡という家老は、腐敗する薩長の指導者たちを見て、あえて滅び行く幕府の側についたのは止むに止まれぬ「武士道」からだったというのが、盛岡藩側から見た歴史です。


それはさておき、その後白石から盛岡へ帰ることを許された藩士たちの生活を支えるために創設されたのが桑田の会なのだそうで、そういう話を聞かされると歴史にまったく弱い私にとっても日本の歴史がグンと身近に感じられます。

来年は、盛岡桑田の歴史のお話が聞けるそうなので、今から楽しみです。

疑問です。
南部20万石ですが、あれは新田開発が進んだ津軽家が5万石から10万石に格上げされ、南部10万石と対等になることに屈辱を感じた旧主筋を主張する南部藩が、無理に格式を20万石に上げてもらっただけのことで、実収(実高)は全く増えておらず、その実高(10万石)で表高(20万石)の軍役などを負担したため幕末の南部藩は困窮したと言われています。
白石領の実高が13万石であったとすれば、実高10万石の盛岡藩領からの移封は、格式さえ気にしなければ、悪い話ではないようにも見えます。賠償金とかを毟り取られた部分を別にして、石高だけに限定しての、議論ですが。
南部20万石ですが、あれは新田開発が進んだ津軽家が5万石から10万石に格上げされ、南部10万石と対等になることに屈辱を感じた旧主筋を主張する南部藩が、無理に格式を20万石に上げてもらっただけのことで、実収(実高)は全く増えておらず、その実高(10万石)で表高(20万石)の軍役などを負担したため幕末の南部藩は困窮したと言われています。
白石領の実高が13万石であったとすれば、実高10万石の盛岡藩領からの移封は、格式さえ気にしなければ、悪い話ではないようにも見えます。賠償金とかを毟り取られた部分を別にして、石高だけに限定しての、議論ですが。
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私はたとえ先祖の土地といえども、歴史にはまったく疎いので、何を聞かされても「へえ~」と思うばかりです。しかし、alchemistさんのコメントを読んでみると、なるほどと思い当たることがありました。
>幕末の南部藩は困窮した
確かに、そのようでした。
不思議なことに、白石からはすぐに戻ってくるのですね。ただし、移動の度に疲弊しておりますので、盛岡に戻った時にはまさにスッカラカン状態だったようです。
>幕末の南部藩は困窮した
確かに、そのようでした。
不思議なことに、白石からはすぐに戻ってくるのですね。ただし、移動の度に疲弊しておりますので、盛岡に戻った時にはまさにスッカラカン状態だったようです。

司馬遼太郎さんの著書でも、ボシン戦争時の南部藩の義理堅さは(伊達藩と比べても)称揚されているように読み取れます。
ただ、江戸時代を通じて相馬大作事件の背景に見え隠れする、南部家と津軽家の意地の張り合いは常規を逸しているように、他県の人間からは見えたりします。
米作りしか認めない日本という社会の中で、米作りにさほど適していない南部藩が、例えば牧畜のような別の社会制度をどうして生み出せなかったのだろうか・・・と、日本の文化の多様さをもたらせなかったことを司馬遼太郎さんは非常に残念がったりしています。
ただ、江戸時代を通じて相馬大作事件の背景に見え隠れする、南部家と津軽家の意地の張り合いは常規を逸しているように、他県の人間からは見えたりします。
米作りしか認めない日本という社会の中で、米作りにさほど適していない南部藩が、例えば牧畜のような別の社会制度をどうして生み出せなかったのだろうか・・・と、日本の文化の多様さをもたらせなかったことを司馬遼太郎さんは非常に残念がったりしています。
まあ、すんでしまったことを残念がっても仕方がないので、歴史の教訓として淡々と受け止めたいと思うのですが、本州などでは当時の諍いが現在の人間関係にまで微妙に影響を与えていることがあるなどという話を聞くにつけても、「歴史の正しい扱い方」を学ぶ必要があると感じますね。

程度の差はあれ、旧藩意識の痕跡はありそうです。その理由の一つとして、旧藩の所在地にはそれなりの伝統高校があることが多いですし、それぞれの伝統校のライバル意識みたいなものに旧城下が刷り込まれて、その維持に一役買っているような気がします。
特に、会津と萩みたいにボシン戦争で揉めてしまった場合、和解には時間がかかりそうですね。まあ、同じ日本人になって一世紀以上過ぎてもボシン戦争の恨みが出てきたりするのが人間ですから、半世紀ちょっと前まで植民地支配されていた民族が旧支配民族への恨みを忘れるのは困難だろうなあ・・・と考えざるを得ません。
特に、会津と萩みたいにボシン戦争で揉めてしまった場合、和解には時間がかかりそうですね。まあ、同じ日本人になって一世紀以上過ぎてもボシン戦争の恨みが出てきたりするのが人間ですから、半世紀ちょっと前まで植民地支配されていた民族が旧支配民族への恨みを忘れるのは困難だろうなあ・・・と考えざるを得ません。
by stochinai
| 2008-09-15 23:59
| その他
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Comments(5)