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[ 2005-05 -01 23:58 ]
2005年 05月 01日 ( 1 )
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2005年 05月 01日
五月朔日(ニュースなんていらない)
5月にはなりましたが、札幌は朝から雨模様で、風も強く肌寒い一日でした。まあ、5月の始めの気候としてはこんなものが平均的かなと思います。
私は近くのホームセンターで野菜の種を物色したりはしましたが、これくらい寒いと種を蒔いても芽が出ませんし、苗を植えても定着が難しい感じなので、こんな日は庭仕事はおやすみです。
夜になって、北朝鮮がミサイルを発射したかも知れないというニュースがあるにはありましたが、ミサイルというよりはロケット花火の発射といったくらいの規模のものらしく、いちいちニュースに(しかもトップニュースに)するのも恥ずかしいくらいのようです。
まあ、悪いニュースなどはないに越したことはないので、良いことなのだと思いますが、昔から不思議に思っていることの一つに、日曜日あるいは休日にはニュースが少ないということがあります。
中学生の頃には、日曜日にニュースが少ない理由の一つは、ニュースを集めている記者も休んでいるからではないかと、考えていたこともあります。
それだとあまりにも短絡的な気がするので、もうちょっと考えてみるとニュースの大きな供給源である政治の現場である議会や、経済の現場である会社も休みなので事件が起こりにくいということもあると思います。
逆に「行楽型事故」というものは、日曜や休日に集中して起こりますが、よほど大きな事故を別にすると、街中や高速道路などで1人や2人規模の死亡事故は、平日に起こった場合には報道されないこともあり、行楽関連で起こった事故はそうしたものに比較するとずいぶんと大きく扱われているように思います。ということは、平日に比べると交通事故も日曜や休日には少ないのではないかと思われます。
世の中の事件や事故は休みになると激減するのでしょうか。
そうだとすると、人間の政治・経済活動そのものが事件や事故の根にある大きな要因ということになります。
さらに考えると、そもそもニュースというものは人間に関係があるから大きく取り上げられるので、人里離れた奥地で大地震や大洪水や崖崩れがあっても、ニュースにならないことも多いでしょうし、そもそもそんなことが起こったかどうかすら認識されないことも多いでしょう。
突き詰めて言うと、ニュースというものも人間のエゴイスティックな活動のひとつに過ぎないということなのでしょうね。
サイモンとガーファンクルに「ニューヨークの少年」という曲があります。その中で、「僕が必要としているニュースは天気予報だけだ」という一節がありますが、そもそもニュースなんていうものが我々の生活に必要なのかどうかというところまで考えると、哲学的な議論になりそうな気がしてきます。
私は近くのホームセンターで野菜の種を物色したりはしましたが、これくらい寒いと種を蒔いても芽が出ませんし、苗を植えても定着が難しい感じなので、こんな日は庭仕事はおやすみです。
夜になって、北朝鮮がミサイルを発射したかも知れないというニュースがあるにはありましたが、ミサイルというよりはロケット花火の発射といったくらいの規模のものらしく、いちいちニュースに(しかもトップニュースに)するのも恥ずかしいくらいのようです。
まあ、悪いニュースなどはないに越したことはないので、良いことなのだと思いますが、昔から不思議に思っていることの一つに、日曜日あるいは休日にはニュースが少ないということがあります。
中学生の頃には、日曜日にニュースが少ない理由の一つは、ニュースを集めている記者も休んでいるからではないかと、考えていたこともあります。
それだとあまりにも短絡的な気がするので、もうちょっと考えてみるとニュースの大きな供給源である政治の現場である議会や、経済の現場である会社も休みなので事件が起こりにくいということもあると思います。
逆に「行楽型事故」というものは、日曜や休日に集中して起こりますが、よほど大きな事故を別にすると、街中や高速道路などで1人や2人規模の死亡事故は、平日に起こった場合には報道されないこともあり、行楽関連で起こった事故はそうしたものに比較するとずいぶんと大きく扱われているように思います。ということは、平日に比べると交通事故も日曜や休日には少ないのではないかと思われます。
世の中の事件や事故は休みになると激減するのでしょうか。
そうだとすると、人間の政治・経済活動そのものが事件や事故の根にある大きな要因ということになります。
さらに考えると、そもそもニュースというものは人間に関係があるから大きく取り上げられるので、人里離れた奥地で大地震や大洪水や崖崩れがあっても、ニュースにならないことも多いでしょうし、そもそもそんなことが起こったかどうかすら認識されないことも多いでしょう。
突き詰めて言うと、ニュースというものも人間のエゴイスティックな活動のひとつに過ぎないということなのでしょうね。
サイモンとガーファンクルに「ニューヨークの少年」という曲があります。その中で、「僕が必要としているニュースは天気予報だけだ」という一節がありますが、そもそもニュースなんていうものが我々の生活に必要なのかどうかというところまで考えると、哲学的な議論になりそうな気がしてきます。
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by stochinai
| 2005-05-01 23:58
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