5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

2006年 01月 15日 ( 1 )

 ようやく借りられるようになったDVDで「モンスター」を見ました。最近の映画界では引っ張りだこのの人気女優になったシャーリーズ・セロンが一皮むけたということで評判をとったアメリカの実話映画です。

 もちろん、基本的にはスリム美人のシャーリーズ・セロンが、明らかに太めと言えるまで太り、顔も元が良いですからよく見ると美人であることは隠しきれないとはいうものの、ちょっと見には明らかに場末の飲み屋のおばさんというところまで不美人なれています。美人ではない人間を演じている美人女優というレベルを越えて、パッと見ると醜いところまで「演じ」られているところが、彼女が並の女優とひと味違うことの証明なのだと感心しながら見ていました。

 アダムズ・ファミリーで名子役だったクリスティーナ・リッチもどんどん変わっていますね。この映画の前に彼女を見たのは「胸に残るは君の歌声」だったような記憶がありますが、そのころから見ても大きく成長したと思います。大人になった未熟児という雰囲気は漂わせていますが、彼女も着々と本物の女優になっていることが感じられました。

 しかし、この映画を見ながら感じていたのは彼女らのすごさだけではなく、弱者が武器を持った時に起こるであろうことの問題です。

 娼婦が「客」の理不尽な要求や身勝手な行動などに、「殺したい」と思うことがあってもまったく不思議はありません。DV被害者が加害者を殺したいと思うことがあっても当然だと思います。

 そういう状況では、暴力的な力が強い方が弱い方に向かって一方的に理不尽な抑圧をかけることが多いのではないでしょうか。つまり、もしもそういう状況において暴力的な力が均等あるいは逆であるならば、そうした被害を受けずにすむということになります。

 その場で、弱い人間がその暴力的力を破ることのできる武器を手にしたらどうなるでしょうか。ナイフや銃を持っていることを知ったら相手が暴力を振るうことの抑止力になるかもしれませんが、暴力が振るわれた女性がその事後に銃を手にすることができたとしたら、その引き金を引くことを否定できる積極的根拠があるとは思えません。

 この映画は実話を元にしているということのようで死刑執行を受けた人間が主役なので、中には明らかにシャーリーズ・セロンが演じる役の人間に正当な理由がない殺人もあったように描かれていましたが、真実はわからないと思いました。

 一般的に言って、二人の人間が対峙するときには、社会的位置関係をはじめとして常に力の差がある状況のほうが普通だと思います。その時にお互いが「平等な」一人の人間として向かい合うということはとても難しいことだと思います。

 もちろん、すべての人は同じではないのですから、絶対に「同等な」人間などはいるはずがなく、わかりやすい男と女という性別をはじめとして、背の高さ、筋肉や脂肪の付き方、容貌の美醜、着ているもの、持っているお金、年齢、学歴、さらには持っている武器等々を考えると、すべての人間は異なる個性を持っています。

 しかし、その個性が個人の優劣を決めているものではないというのが民主主義というものであり、すべての人は人間として平等だと教えられて育ってきた人間が、いきなりお金や暴力的強さに屈服させられる状況に置かれた時に、例えようもない不条理を感じ相手を殺したくなるという気持ちに大きな違和感は感じられません。

 そういう意味で、虐げられたものに武器を持たせるということは、ある種の民主主義的バランスを保障するものという議論も成り立ちうるのだと思います。その結果、不幸なことが起こるのは権力を持ったものがその権力を「正しく」運用しなかった結果の自業自得という側面があるということになります。

 この議論はいくらでも拡張することができるのは、この世の中というものがいかに理不尽に「力」が不均等に分布しているかということの裏返しです。

 虐げられた人がたくさんいる社会に武器が広まるとどんなに恐ろしいかということは、武器をとる側に「正義感」があるということに理由があると思います。そして、残念ながら今の日本という国では、市民の間に武器が広まるととんでもない状況になるだろうと思われるほど理不尽が蔓延していることが不気味でなりません。
by stochinai | 2006-01-15 23:58 | つぶやき | Comments(3)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai