5号館を出て

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2006年 08月 06日 ( 1 )

 ずっと前から考えていることのひとつに、数値で評価すると必ず不正が起こるという「法則」があります。

 今は小学校ではやっていないところもあるようですが、我々は小学校から5段階あるいは10段階で学業の成績を評価されてきました。それで、自分のレベルが数値で評価されるということに慣れています。もちろん良い成績をもらえたらうれしいのですが、悪い数値をもらうと自分の全人格を否定されたような暗い気持ちになります。

 数値で評価することによって、あらゆる人間を一本の物差しの上に並べることが可能になります。つまり、順位がつけられます。この順位を利用して、義務教育終了後に望みの高等教育を受ける機会が得られるかどうかの振り分けをすることが、日本では広く利用されています。この数値で高等教育の機会が得られたり奪われたりすることが正当であるかどうかについて科学的・合理的な説明を聞いたことはありませんが、実用上非常に便利であることは私も認めます。

 しかし、こうした数値による評価というものが作られる過程を見ているとかなり危ういところがたくさんあるのは、試験の採点をしている時などに強く実感できます。それにもかかわらず、いったん点数が決定されてしまうと、その数値を利用して順位の決定をすることなどがとても簡単にできてしまうので、数値が出た後はその値が一人歩きを始めて、すべての価値がその数値に宿っているかのような扱われ方をするものです。

 逆に、この数値が得られるまでのところではどんなことをしようと数値にその情報が盛り込まれることはありませんから、数値が出る前の過程ではありとあらゆる「不正」が行われる温床になってしまいます。

 犯罪検挙率という数値によって評価される警察では、もちろん犯人の検挙数をあげることを努力するという正当な手段に努力していると思いますが、逆に犯罪として認識されたケースを減らすことによっても評価を上げることが可能になります。昨今良く聞く、警察に訴えても事件として受け付けられなかったという例はこれに当たると思います。

 また、社会保険庁が年金の納付率によって評価されるとしたら、年金納付対象者を減らすことによっても評価を上げることが可能になります。年金納付免除や身元不明によって徴収すべき対象が減った場合には徴収額が増えなくても納付率が上がります。

 ボクシングの試合にしてもジャッジの持ち点がこれこれで、たとえダウンがあっても規定以上の点差をつけることができないという「説明」がなされると、足し算によって負けているように見えている選手も勝つことがあるのです、などという説得力のない説明も数値というマジックでなんとなくそれらしい形がついてしまいます。

 科学研究費の配分にしても、最近は数値化して評価されているらしく、「あなたは3.345なので、今年配分を受ける3.346に達しておりません」というような「説明」によって、納得させられる事態になっています。研究費の申請書は文章で書かれたものですから、それが数値へと変換されるプロセスは客観性が低いと言わざるを得ませんので、それによって作られた数値に客観性があるとして話を進めるのことには無理があります。逆に言うと、たとえどんな手段を使ってでも3.346以上の値を得ることができれば研究費が配分されるのです。

 このように数値化することで最終的な評価を行うシステムというものは、数値が出てしまった後ではいくらでも精密な「客観的比較」が可能になりますが、逆にいうとその数字が出る前はどんなに不正があったとしてもすべてがロンダリングされてしまうという非常に危険なやり方だと言わざるを得ません。

 最近はさまざななものを数値化して評価することが普通になってきていますが、評価が数値化されるということが知られてしまうと、数値を上げるためのあらゆる不正の試みがなされることを覚悟しておかなければなりません。毎日のように起こるさまざまな事件の背景に、この一般化した数値化による評価というものがあることが見え隠れしているように思えてなりません。

 効率は悪くなるかもしれませんし、評価する人間の力も責任も問われると思いますが、やはり最初から最後まで人間を丸ごと見つめ続けるという評価方法を捨ててしまっては国が滅びてしまうような気がします。
by stochinai | 2006-08-06 23:59 | つぶやき | Comments(5)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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