5号館を出て

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カテゴリ:大学・高等教育( 408 )

学長選挙

 メールが来ました。

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 次期総長の選考に当たり,総長選考会議委員による
投票の結果,次期総長候補者は下記のとおりとなった。

                記


           中  村  睦  男

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 先日、ふたりの候補者で学長候補者の人気投票があり、現職の中村さんが615票で、博物館長の藤田さんが553票という結果でした。人気には、それほど差がなかったということですね。

 その投票(選挙ではもちろんありません)を受けて、本日選考会議があったようです。そこで「投票」が行われて、上のように現職が再選という結果が出たということなのでしょう。

 この「総長選考会議」というものは、たった13名の会議ですから、たとえそこで投票をやってもそれは「選挙」と言えるほどのものではないと思いますが、北大の場合にもそれがニュースとなって、「東北大、学長選挙廃止へ 『非民主的』と批判の声も」というような報道がされたことはあったのでしょうか。

 まあこういうふうに、なんとなくなし崩し的にいろんなことが変わっていくというのが、この大学の特徴なのかもしれません。

 そういう意味では、やっぱり文科省の優等生というところでしょうか。
by stochinai | 2005-02-03 16:49 | 大学・高等教育 | Comments(0)

静かな学長選挙

 北大の学長が総長と呼ばれるようになったのは、それほど昔の話ではありません。それまでは学長と呼ばれていたものが、当時のH学長が東大や京大では学長のことを総長と読んでいるので、(「自分もそう呼ばれたい」とまで言ったかどうかは定かではありませんが)同じ旧帝大の北海道大学でも学長のことを総長と呼ぶことにしたいと提案し、あっさり決まってしまいました。

 学長と総長とどこが違うのかは、いまだにわかりませんが北大が自分で総長と呼ぶことに決めたら、新聞などでもそのように呼んでくれるようになったようです。学長に比べ偉そうに響く総長ですが、ヤクザとか暴走族でも親分を総長と呼ぶことがあるようなので、私は個人的には好きではない呼び方です。だいたい、中味の変更なしに昨日まで学長と呼ばれていた人が、次の日から総長と呼ばれるようになったといういきさつも気に入りません。

 というわけで、私は今でも総長という名前に馴染んでいないのですが、公告が回ってきました。「第一次候補者にかかわる所見等の送付について」という文書です。(学長は総長と呼ぶのですが、副学長は副総長とは呼ばないのも、不思議です。)

 それによると「公示によりすでにご承知のことと思われますが、来る2月1日(火)に時期総長候補者の選考に係る学内意向聴取(投票)が実施されます」とのことです。

 今年の学長選挙はいつになく静かだと思っていたら、どうもいつの間にか選挙はなくなってしまっていたようです。「当該意向聴取は、総長選考会議委員による投票に先立ち、同委員が参考とするために行われる重要な手続きであります」とのこと。つまり、我々が2月1日に投票するのは、学長候補者の意向調査(人気投票)に過ぎないということでしょう。

 その投票の結果を、参考にするのかしないのかはさておき、その後に「選考会議による選考」というものがあるようで、そこでの投票が学長を決めることになると思われます。今日のニュースで、東北大学では学長選挙が廃止になると大々的に報じられていますが、我々が投票できる「学長選挙」も人気投票にすぎないのだとすると、北海道大学でも学長選挙が廃止になったと理解できます。

 で、そこで出てきている第一次候補者というのがまたまたふざけていて、現職の学長であるN先生と、副学長のF先生でした。(補足:F先生は今は副学長ではなく、博物館長・獣医学部長でした。【2006年11月にさらに訂正・補足】1997-1999、総長補佐;1999-2001,獣医学研究科長;2001-2003,副学長(なんで「副総長」じゃないんでしょう?^^);2003-現在、博物館長、でした。お詫びして、訂正します。)

 どちらも現執行部の方で、副学長の方が反執行部だということなのかもしれませんが、そのふたりのうちから次期学長としてふさわしい方を選べという択一問題は、入試ならば解答なしと言われてしまいそうなチョイスです。

 どおりで学内が静かなわけでした。

 現学長が選ばれた最後の学長選挙の時には、もう少し学内に活気があったことを記憶しています。その時には、現学長は国立大学法人化反対をはっきりと掲げて当選したことを記憶しています。今回、候補者になった副学長はその時にも推薦を受けたのですが候補になることを自ら辞退されていた方です。

 その後、学長は粛々と法人化を推進し、副学長も一緒に行動していたのだと思っていましたが、実は呉越同舟だったということなのでしょうか。

 それにしても、どちらが新しい学長になったとしても、北大の方針が劇的に変わるような気はしません。

 そもそも、こんな「選挙のようなもの」で新しい学長を決めるというセンスがどうも理解できません。法人化したのだから、下々のものが経営陣に口を出すなというのなら、「選挙のようなもの」もやめてしまったほうが良いのではないでしょうか。
by stochinai | 2005-01-27 23:27 | 大学・高等教育 | Comments(0)

大学にコンビニ

 今日はこれから忘年会なので、「つぶやき」は休刊にしようかと思ったのですが、京都新聞の国立大初のコンビニ 京都大でオープンのニュースが気になりました。

 そう言えば、東広島にある広島大のキャンパス内にはマクドナルドがあった記憶があります。やっぱりど真ん中にありました。

 京大では開店前から話題になっていたようで、学内新聞が事前に記事を書いています。吉田南構内にコンビニ出店がそれです。大学と、既存の生協と、ローソンの三者三様の思惑が絡み合っている様子が見て取れます。

 開店の日にもローソンがオープンと、改めてニュースになっています。

 24時間営業はしないものの、午前7時から午後9時までと長く設定し、「やや値段が高い」と言われながらも生協との時間的住み分けを狙っているところが見て取れます。

 ただし、「大学構内ということを考慮し、酒や成人雑誌は販売しない」とのことですが、北大生協でも酒は売っています。酒を売らない理由は別のところにあるのかもしれません。

 大学も法人化したので、「工事費用はローソン持ち」で「一定の利益が出れば寄付を受ける」という話は、喉から手が出るような話なのかもしれません。しかし、ローソンだって私企業ですから、儲けの出ないことはやりません。学内に出店させるのでしたら、あくまでも学生や教員の利益を損ねないようなしたたかさを持って交渉に当たって欲しいものです。

 法人化してからの国立大学は、やたらとみみっちくなっていることは事実で、ある意味では健全な節約精神と言えなくもないのですが、つい昨日まで中央官庁の官僚や国会議員と同じく、一円でも多く国から資金を調達し、もらったものは余さず使うという生活をしていた大学ですので、正直に申しあげてお金の使い方はまだまだ幼稚な感が否めません。

 学内に民間企業がどんどん入ってくるのは構わないと思いますが、彼らの狡猾さにコロリとだまされて、気がついてみたら生協がつぶれ、あらゆるものの値段が高くなってしまっていたなどということにならないように気をつけたいものです。
by stochinai | 2004-12-14 00:00 | 大学・高等教育 | Comments(0)

大学入試の廃止

 昨日はOECD調査結果の公表で、教育界に激震が走ったので、もう一つのニュースが埋もれてしまいました。京大が07年度入試から全学で共通にやる後期入試を廃止するというものです。

 大学の中にいると、この入試というものにとてつもない(必要以上の)エネルギーが割かれていることが良くわかります。しかも、基本的に秘密業務なので、作業そのものに携わっていることも、どんなに大変かということについても、内部で愚痴を言い合うことくらいしかできません。

 また、入試問題が新聞で公開され、予備校の先生などによって正解が出されるような旧帝大のようなケースだと、問題の内容にまで詳細に詳しい批評や批判、時としては非難までも受ける可能性がありますから、出す方としては胃が痛くなる1年なのです。しかも、最近は分離・分割方式と言うことで、大学独自の2次試験を二回もやりますので、その苦労たるや大変なものなのです。

 そもそも、試験問題を作る側は高校で教えられている教科の内容や、学習指導要領などというものには疎い人が多く、逆にそれを批判する側の高校や予備校の先生は、その道のプロですから勝負になりません。最近は減ってきたと思いますが、奇問・難問と非難されるような問題が出されるのは当たり前というのが内部から見た感想です。

 最近は、予備校に入試問題の作成を依頼する大学も出てきたようですが、問題作成を命じられた人の立場に立ってみると、その気持ちは良くわかります。

 各大学が独自に行う2次試験の結果は、センター試験との相関が極めて高いことも一般に知られており、センター試験を受けた学生にもう一度試験を受けさせる意味はほとんどないことも周知の事実だと思います。センター試験の成績だけで入学の合否判定をしても、2次試験の結果を加算しても、あるいは2次試験の結果だけで判定しても、いずれもそれほど大きな差を生じないことを示すデータは、日本中の大学が持っていると思います。

 にもかかわらず、センター試験だけで判定する国立大学がない(少ない?)のはなぜなんでしょう。

 私にはまったく理解できません。何か「目に見えない大きな力」に支配されているとしか思えないのです。

 そんな中で国立大学が法人化されましたから、大学運営において効率の悪いことは止めようという話になってくるのは当然の流れです。今後、各大学で追随する動きが出るのではないでしょうか。そもそも、私大などでもセンター試験を利用するところが増えてきて、この先自前の入試そのものをしない大学がどんどん増えてくるだろうと、私は思っています。

 そもそも入試などという「儀式」をやるくらいなら、希望者を全員入学させて、やる気とついてくる学力のある人間だけを残すシステムを作る方がよっぽど生産的だし、前向きだと思うのですが、どうでしょうか。

 初年度は、希望者全員を入学させた上で、100人とか200人とか500人とかのマスプロ講義でガンガンしごいて、それでも大学に残りたいという人間だけを残して、「本当の大学の教育」をしていくというような大学がひとつくらいあっても良いのではないかと思います。どなたか、お金を出してくれないでしょうか。そういうおもしろい試みにならば、いくらでも協力したいと思います。
by stochinai | 2004-12-08 00:00 | 大学・高等教育 | Comments(0)
 大学院進学はまちがいなく自殺行為であるというかなり扇情的なタイトルの記事が出ています。

 当然、いろいろな条件がついての話です。オリジナルのブログでは、「『研究者になるつもりの』大学院進学は、という限定付きであるが。(修士課程を出て他の職に就くつもりなら、かまいません、止めはしません)」ということです。

 大学院生をお預かりしている身としては、穏やかならぬ気持ちで読まされます。

 飯田泰之という先生(どちらの先生なのでしょう)の発言との断り書きがついて「東大で大学院に入るのは自殺行為、それ以外の大学で大学院に入れるのは殺人」というものまであります。「特に地方旧帝大の君、要注意。先生は責任とってくれへん」と、うちの大学のことまで書いてくれています。まあ、大学院に入って先生に責任取ってくれ、というのも甘えた話ですが、そういうふうに思っている学生がいても不思議はないとは思います。

 これらを引用しながらコメントしている記事を書いている人は、どうもこうした話に納得がいかないといろいろと解説してくれています。

 その中には、「日本では東大以外に文系の博士課程はいらない」と書いてあるので、ちょっとわかりました。文系のことなのですね。我々の理系では、そこまでひどくないかもしれないと思っていたからです。でもまあ、50歩100歩と言われれば、それはそうです。

 まったく何も考えずに大学院へ進学するのは、まったく何も考えずに就職するのと同様な「自殺行為」だと私も思います。

 文系のことは良くわかりませんが、時代が変化しているスピードと、人々の考えていることあるいは信じていることの変化するスピードが違うことが、こういった過激な発言の根にあるのかも、とも思います。

 ここでも、すでに何回か書いていますが、政府の大学院重点化政策によって大学院生は急増している一方、少子化により大学は減る傾向があり、不景気によって企業の研究所も縮小の一途をたどっています。つまり、二昔くらい前に私たちが大学院に進学した時代なら、誰でも大学院に入りさえすれば運が良ければ大学の先生、悪くても国研か企業の研究者になれました。私がその見本みたいなものです。ある日、気が付いたら「助手やるか」と言われて採用になりました。しかし、今は大学院を出ても、博士号を取ってもその多くの人は先生にも研究者にもなれません。それは数学的な事実です。

 にもかかわらず、世の中(つまり大学院生予備軍、およびその親とか親戚)では、大学院を出さえすれば、まさか食えないってことはないだろう、と思っている人が多いようです。しかし、そのまさかがかなりの確率で本当のことになっているという現実があります。にもかかわらず、世の中の多くの人は、まだ「まさか」と思い続けているようです。それが「常識」のようなのです。

 そんなことを知っているなら、きちんと学生に話せよと言われると思いますが、私個人はそれなりに話しているつもりです。しかし、大学の先生の中にもこの「常識」に毒されている人がかなりいるという現実があります。「しっかりやりさえすれば、今でも大学の先生や研究者になることは不可能ではない。もしなれかったとすれば、それは君の努力がたりないからだ」とおっしゃる先生がいることは認めます。このようにおっしゃる先生の多くに悪意はなく、単に現実を知らないだけです。現実を知っているかどうかは、大学に居続けることができるかどうかの基準にはなりません。

 ですから、 [edu] 大学院進学するな、させるな問題[承前]書いてあるように、「むしろ(これが言いたいことのもう一つ)大学院担当教員に向けて、おまえら、安直に大学院進学考えてるやつらを安直に入れてどーすんだ、というのが強調したい点で。それは自殺行為だぞ、と諭す(そして自分たち=大学業界にとっても自殺行為であることを自覚する)のがおまえらの役目だろう」と書いてあります。はい、その通りだと思います。私も連帯責任を持つ人間であることを認めます。

 でもやっぱり、次のような人には大学院にはいってもらいたいと思います。「大学院へ入ることは、経済的安定を目指す人には自殺行為かもしれないけれども、それを知りつつ自分は生物学の研究をしてみたいから大学院へいきます。もちろん、先生には何の力もないことは知っていますので、責任を取れなどというマヌケなことは言いません。最後は自分でなんとかします」という冷静な判断と覚悟があるのなら、大学院というところは今でもそれなりに自分を磨き、成長し、楽しめる場所であると思うのです。

 最後に、老婆心ながら一言だけ。理系では東大の大学院へはいったからといって、事情はほとんど変わりません。東大の大学院生だけで、すでに多すぎなのです。
by stochinai | 2004-12-02 00:00 | 大学・高等教育 | Comments(2)

AO入試

 これは22日になってから書いています。

 北大理学部でも21日に、生物科学科、化学科、地球科学科AO入試の二次選抜が行われました。

 普通の入試ならば来春まで進路が決まらないのに、今の時期に入試が行われて決まるとすれば、残りの高校最後の生活をかなり充実したものにできるに違いありません。もちろん、無駄に過ごしてしまう可能性もないとは言えませんが、意志のある人にとっては、大学進学が確約されての数ヶ月、読書をしたり自由な勉強をしたりと、普通ならば受験勉強最後の追い込みのつらい時期を、有意義に過ごすことができるに違いありません。

 でも私は、前からAO入試ということに違和感を感じておりました。

 AO(admission office)が、大学入学者を決めるというのはアメリカでは古くから行われていることのはずですが、入試があるという話はほとんど聞いたことがありません。

 高校生は、自分の高校までの業績(勉強だけではない)を大学のAOに送り、大学のAOでは送られてきた資料と独自に調査して集めた情報で入学を許可するかどうか、あるいは奨学金を出すかどうかなどということを審査してくれるという制度だと理解しています。

 たとえAOがやっていても、一発勝負の「試験」をやるのなら、一般入試とそれほど大きな差があるとは思えないというのが、私の疑問の出発点です。

 もちろん、一般入試よりも試験科目が極端に少なく、プレゼンテーションや面接試験なども取り入れられているでしょうから、一般入試とは異なる人材が合格する確立も高いと思います。それはそれで、評価できる事柄です。

 なぜ試験をやるかというと、やっぱり大学側のリソース不足なのだと思います。アメリカの大学のAOは、どちらかというとプロスポーツ球団のスカウトのようなものを想像すればわかりやすく、大学に入りたい人間と言うより、大学が欲しい人材を捜し出して、入学をお願いするための組織だと聞いています。

 それをやるためには、人とお金と時間が必要で、たくさんの専門の職員が全国の高校を歩いて回って、大学で欲しい人材を発掘して歩くことをやらなければならないと思います。

 今の日本の大学の進学者選びでは、ほんの数名の教員が持ち回りで入試委員(要するに、教育研究の合間のパートタイム業務です)をやっているのが現状ですから、試験をせずに人材を見つけるなどということはとうてい不可能なのです。

 ですから、名前としてはAOがやるのに「入試」という形を採らざるを得ないという現状は理解できます。しかし、大学教育を根底から変えようと思うのなら、入試を全廃してAOが責任をもって入学者を選び出していくという制度に変えるということも真剣に検討して良い時期がきていると思っています。

 北大は国立大学法人なのですから、納税者である国民の皆さんは意見を言う権利があります。入試制度に関しても、採る側の論理ではなく受ける側の論理を主張してください。とは言っても、大学のホームページにご意見メールコーナーすらないのも、問題ですよね。
by stochinai | 2004-11-21 17:26 | 大学・高等教育 | Comments(0)
 今日は、北海道の高校の先生向けに頼まれた原稿の下書きを転載させてもらいます。

Ⅰ はじめに
1.国立大学法人・北海道大学
 今年の春から国立大学法人というものになった北海道大学の理学部は、理学研究科という大学院にぶら下がっている組織です。もちろん学部生はそこに所属しているのですが、教員も大学院生も理学研究科という大学院組織に属しています。この10年くらいは他の大学と同様に北海道大学でも、頻繁に大学組織の改革が行われており、大学の中にいる我々でさえ組織がどうなっているのかを把握しきれずにおりますので、外からご覧の皆さまには何がなんだかわからないことだと思います。話をわかりやすくするために、大学入学から学部移行、そして大学院へと進学する学生の視点で説明をしてみましょう。
Ⅱ 理学部・生物科学科
1.入学から学科分属
 現在は、理学部生物系として入学試験による選抜が行われています。一般入試(前期・後期)とAO入試を合わせて45名の入学者のうち、2年次にAO入試の5名と40名中27名合わせて32名が生物科学科(生物学)へと分属します。残りの13名のうち8名は生物科学科(高分子機能学)へ、残りの5名は地球科学科へと分属します。逆に、物理系から3名、科学系から5名が生物科学科へと分属・進級してきます。ただし、2006年からは、生物の得意な学生に対する生物重視の入試は残りますが、入学後は理学部として一括教育をすることになっており、入学の時点での系別は廃止されることになっています。
2.学部から卒業研究
 生物科学科(生物学)へ進級した学生は、2年次と3年次は、生物科学の専門の講義と実習で非常に忙しい毎日を送ることになります。この2年間は非常に厳しく、毎日朝から晩まで講義と実験に明け暮れますが、ようやく専門の学問に触れるという実感を持てるようになる時期でもあります。勉学の苦しさから、落ちこぼれとなってしまう学生も出てきますが、多くの場合はここで講義をする研究者に出会い、研究のおもしろさを教えられ、現実感を持って研究することを望み始める学生も多くなります。
 もっともハードな講義と実習で追いまくられる3年次が終わると、卒業実習のための研究室分属が行われ、各研究室に一人か二人ずつ配属され、いよいよ研究のまねごとが開始されるのです。多くの学生は3年次までに、教職や卒業研究以外のほとんどの単位は取得してしまいますので、4年次は教職単位を除くとほぼすべての時間を卒業実習という名の研究に宛てるようになります。すでに、気分は大学院生です。私の所属する研究室には、今年二人の卒業実習生が配属され、次のような研究をしています。それぞれ本人が書いています。
(T君)ヤマトヒメミミズには、どんな細胞にでも分化できると言われる幹細胞(ネオブラスト)が存在します。自分はこのネオブラストの発生過程に興味を持ち、ネオブラストがどのように発生してくるのか、またネオブラストが幹細胞と同じく未分化であるのなら、その発生過程において未分化能がどのように維持されているのかを解明したいと考えています。現在は研究の第一段階として胚の構造を観察しているところです。
(Mさん)GFPはくらげ由来のたんぱく質で蛍光を発します。GFPの発色効率をさらに高めたVENUSという遺伝子が理化学研究所で開発されました。私は、これをアフリカツメガエルに組み込み、全身でVENUSを発現する個体を作りたいと思っています。また、この個体の元になる卵と精子はJ系統という、遺伝子が均一になっている系統の個体のものです。全身で蛍光を呈し、なおかつGFPを組み込まれていないJ系統と移植実験を行ってみて、拒絶反応が起こるかどうかを確かめてみたいと思っています。
図1 アフリカツメガエル
Ⅲ 大学院・理学研究科生物科学専攻
1.組織
 私たちの研究室は、大学院・生物科学専攻の系統進化学講座にありますが、そこは事実上3つのグループの分かれていて、内部では系統進化のⅠ、Ⅱ、Ⅲと呼ばれています。Ⅰは教授2名、に助手1名で動物分類学と生態学、Ⅱは教授1名と助教授2名で植物分類学、Ⅲは私一人の助教授1名だけのとても小さな研究室ですが、いちおう進化発生学研究という看板を掲げています。
2.研究
 そこには、すでに博士号を持った独立の研究者である博士研究員を先頭に、大学院博士後期課程の学生が4名、博士前期課程(修士課程)の学生が3名いて、次のような研究をしています。
(博士研究員:Yさん)我々人間を含む多くの動物は、前後軸、背腹軸を持った左右相称動物です。一方、有櫛動物(クシクラゲ)は、口-反口軸と呼ばれる軸を持つ放射相称動物です。放射相称動物は、進化学上、左右相称動物が出現する直前に位置しており、遡れば、左右相称動物と共通の祖先動物から進化してきたと考えられています。本研究では、放射相称動物であるクシクラゲの軸構造を、分子生物学的手法により解析しています。また、有櫛動物がモザイク卵であることを利用して、細胞質や割球の除去により有櫛動物の軸形成を実験生物学的に解析することも目指しています。
(博士後期課程3年:K君)私達が使っているヤマトヒメミミズは、雨の日に道端でよく出会うフトミミズ等に比べてとても小さく、とても変わった増え方をします。1.5 cmほどに成長すると、自分の体をいくつもの断片にちぎるのです。そして、それぞれの断片は前に頭、後ろに尾を再生して、1匹のミミズになります。ところが時々、後ろにも頭が再生して、両側に頭をもったミミズになってしまうことがあります。私はこの両頭ミミズに注目して、どのようにして頭や尾が作られるのかについて研究しています。
図2 ヤマトヒメミミズ
(博士後期課程3年:Y君)哺乳類、鳥類、爬虫類では脳は再生しません。しかし、同じ脊椎動物でも下等な魚類、有尾両生類(イモリ)では脳の一部を除去しても再生できます。おもしろいことに、これらの間に位置する無尾両生類(カエル)では、オタマジャクシの時は再生できるのですが、カエルになってしまうとできなくなってしまいます。この個体発生にともなう再生能力の消失に興味をもちました。今までの研究から「カエルも脳の再生に必要な分裂できる細胞は持っているが、カエルになるとこの細胞が壊れた部位に移動できなくなる」ことを発見しました。
(博士後期課程2年:T君)長年にわたる形態学と分子生物学研究から、受精卵から全体の調和を保ちながらからだが作られる発生過程と、全体との調和が取れるようにからだが補修される再生過程では、状況が異なるにもかかわらず、同じ遺伝子が働ていることがわかってきました。私はヤマトヒメミミズを実験材料に、特に再生初期の遺伝子発現の変化に注目し、再生をコントロールするメカニズムを明らかにすることを目標に研究を行っています。
(博士後期課程1年:Sさん)私が実験材料として用いているヤマトヒメミミズは、プラナリアと同様に、細かく切り刻んでもそれぞれの断片が再び完全な個体へと再生しますが、幹細胞(ネオブラスト)の数ははるかに少ないです。今までの研究から、ヤマトヒメミミズのネオブラストは切断後まもなく同調的に分裂増殖しながら切り口へ移動し、再生芽と呼ばれる新しい組織を作ることが示されました。私は、再生時のネオブラストの挙動を追跡することで、少数の幹細胞による驚異的な再生能力のメカニズムを探りたいと思っています。
(修士課程1年:K君)私は脳も再生できる両生類の中でも、オタマジャクシの時には再生できるのに、カエルになると再生できなくなるという特徴を持つアフリカツメガエルを用いて、視覚情報の処理を行っている中脳という部分についての再生実験を行っています。主に、カエルになると再生能力を失ってしまう原因の解明を中心に実験を進めています。
(修士課程1年:Nさん)ミジンコでは、形態の違いから別種とされていた2つのグループが、実は通常型と捕食者の存在で誘導される防御型の違いであることが明らかになってきました。このように発生時の外部環境によって異なる表現型を選択するという現象は、環境と進化の関わりについて研究するための良いモデルになると思います。フサカがいるとミジンコにはneckteethと言われる突起が形成され、それを持つ個体は捕食されにくくなります。今後は、フサカからの刺激を受けた個体では形態形成に関わる遺伝子の発現がどのように変化するのか、長期にわたり刺激を与え続けることでかたちの変化の仕方に影響があるのか、などを調べていきたいと思っています。
図3 ミジンコ
Ⅳ おわりに
 このように、さまざまな研究材料を使ってとりとめのない研究をしているように見える私たちの研究室ですが、研究テーマの中にある動物のからだが作られていく発生とそれを作り直す再生、そして作られたからだを守る免疫というものの中には、不安定から安定へとからだの中の状態を一定に保つホメオスタシスともいうべき共通の性質があると思っています。そして、それらのしくみがすべての動物において、進化という縦糸で結ばれているのです。私たちの研究室では、これからもホメオスタシスと進化についての研究を続けながら、地球上における生命の歴史と未来を見つめ続けていきたいと思っています。
by stochinai | 2004-11-19 17:28 | 大学・高等教育 | Comments(0)

講義の準備にはまる

 今日もまた、自転車操業で講義の準備をして、はまっておりました。

 例え1週間に1回の講義といえども、ここのところは、コンスタントに週4回ですから、綱渡りとも言える状況でヨタヨタと自転車を走らせております。

 その合間を縫って、会議やらゼミやら雑談やらが入りますので、それなりに余裕のない生活になっており、さまざまな方にご迷惑をおかけしておりますが、一息つけるまでお許し願えると幸いです。(やっぱり、許してはもらえないですよね。スミマセン。)

 大学での研究も教育も、長年使い続けることのできる教科書や参考書などというものがないところがつらいところでもあり、おもしろいところでもあります。

 学問は毎年進歩しており、研究はもちろんのこと教育に関しても、学問の最前線についていこうとすれば、去年の講義(およびその資料)は今年はもう使えないのが基本です。

 昔、私が学生の頃に、「大学の先生というのものは、一回講義の準備をすればそのノートを20年でも30年でも使い続けることができるので、こんなに楽な商売はないのだ」という、伝説を聞かされたことがあります。

 確かに、大学に入った最初の年に、ひとりだけ茶色になったノートを読み上げていた先生に出会いましたが、それ以外の先生の多くはやはり「新しい」学問について教えてくれた印象があります。つまり、伝説はやはりただのお話でしかなかったのです。

 新しい学問を教育し続けるのが、大学教育であるとするならば講義ノートは毎年新しくならなければなりません。大学で教えるということは、決して楽な商売ではありません。

 というわけで、私はずっと前から講義ノートという存在すら忘れておりました。

 もしも講義の中に、昨日・今日、先週・今週に起こった出来事、発見された事象、発表された論文を盛り込むことができるならば、やる方もおもしろく、聞く方の心もつかみやすいのです。おまけに、昨今はインターネットを含めてさまざまな情報や技術が手に入りやすくなっており、あれもこれもと使いたくなるものです。

 かくして、自転車操業の夜は更けていくのでありました。
by stochinai | 2004-11-09 17:51 | 大学・高等教育 | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai