5号館を出て

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日本国憲法 前文

 ちょっとタイミングが悪いですが、また日本国憲法の前文を読んでみたくなりました。

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前 文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動しわれらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

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 下線は、私が勝手に引いたものですが「ここ重要だからね」です。いくら憲法改正が議論されているといっても、日本国籍を持つすべての人は、現時点ではこれを守らないといけないのですが、守れているでしょうか。
by stochinai | 2005-05-07 13:03 | つぶやき | Comments(2)
 日本のメディアは冷たいですね。韓国でとんでもない動物が発見されました。日本のメディアはおそらくほとんどすべてが無視しているのだと思いますが、東亜日報で日本語ニュースが読めます。

#アジアで起こった出来事を、自分達のこととして共有できる体質になることが、アジア各国との平和共存への一歩だと思うのですが、マスコミがこの姿勢ではまだまだ先は遠そうです。

 サンショウウオの新種発見 アジアでは初めて

 Natureの5月5日号には、アジアで初めて発見されたアメリカサンショウウオ科の新種発見の記載論文が載っています。

 Nature 435, 87-90 (5 May 2005)

 Discovery of the first Asian plethodontid salamander

 両生類は陸にあがることができても、その生殖は水の中に戻って行わなければならず、世界的レベルで水質の汚染が進んでいることから、かなりの勢いでたくさんの種が絶滅に追い込まれつつあると言われています。両生類には、尾のあるもの(イモリ・サンショウウオ)、尾のないもの(カエル)それに手足のないもの(アシナシイモリ)の3つの大きなグループが現存していますが、今回発見されたものは尾のある仲間です。

 尾のある両生類の中で、もっとも種数が多く繁栄していると考えられていながら、今までは南北アメリカ大陸と南ヨーロッパの一部でしか発見されていなかったアメリカサンショウウオ科(Plethodontidae)の種が韓国で発見されたのです。

 このことの意義はとても大きく、現在はユーラシア大陸ではヨーロッパの南端にしかいないアメリカサンショウウオ科が旧大陸にも広く分布していたことの生きた証拠になると考えられるからです。逆に言うと、日本を含むアジアからヨーロッパにかけての一帯を一所懸命に探すと、この仲間の新種が続々と発見される可能性がまだまだあるということです。

 脊椎動物の新種の発見はもうないだろうと言われてから何十年も経ちますが、鳥類を含めて目に見える大きさの新種はまだまだ発見が相次いでいます。それと並行して、あるいはそれ以上にたくさんの種がどんどん絶滅していることを考えると、我々人類は発見と絶滅のレースに今まで以上に力を注ぐべきなのではないでしょうか。

 なお、このサンショウウオの新種の和名はまだついていないと思われますが、東亜日報の記事によると「コケサンショウウオ」となっています。Natureの論文中ではKorean crevice salamander チョウセンクレバスサンショウウオと書いてあります。ただし、 Korean: Ikkee dorongyong とも書いてありますので、ひょっとするとこれがコケサンショウウオになるのかも知れません。

 このエントリーの中でも、わかりやすいようにサンショウウオという呼び方をしていますが、実はアメリカサンショウウオは我々が良く知っている、いわゆるサンショウウオ(エゾサンショウウオやトウキョウサンショウウオ、オオサンショウウオなど)よりはイモリに近い仲間で、英語ではサラマンダー(salamander)と呼ばれるグループです。イモリはnewtと呼ばれます。

 そのあたりを含めて、尾のある両生類の分類については、このページがとてもわかりやすいので、参考にしてください。
by stochinai | 2005-05-06 22:36 | 生物学 | Comments(4)
 「大学教育を考えたりする私」さんのところからの孫引きです。

 「私」さんも、本当なのかな~?とおっしゃってますが、私には本当のように思われる数字がならんでいるのが不気味です。

 こういう「お話」にも、引用サイトとか文献が載っていて欲しいと思うのは、「科学者」の悪い癖なんでしょうか。

 ともかく、博士をとっても甘くないということを再確認するためだけにでも、一度くらいは見ておくほうが良いでしょう。

 おすすめというわけではありませんが、一般教養としてどうぞ。

 サイト
   創作童話 博士(博士)が100人いるむら
by stochinai | 2005-05-06 16:21 | 教育 | Comments(5)
 札幌は深い雪に覆われた冬から一転して急速に初夏へと向かっています。庭の手入れをしていると、こぼれ種からたくさんの芽が出ているのを発見します。

 一年草の多くは、花を咲かせ枯れてしまう前にたくさんの種を散らします。厳しい冬を越えて春になっても、種の多くは芽生えることもなく死んでしまうでしょう。たとえ幸運に恵まれ芽を出すことができたとしても、その多くが環境に恵まれずに成長することもできずに枯れてしまいます。しかし、ごくごく少数だとしても、幸運なものは昨年花を咲かせた親よりも立派にぐんぐんと育っていきます。

 同じような資質を持った種であるにもかかわらず、芽を出した環境の差が原因で非常に大きな差を持ってしまうのは、運命のいたずらと言わざるを得ませんが、逆に考えると将来の環境を予測して種を撒く場所をコントロールすることのできない植物は、たくさんの種をいろいろな場所にまき散らし、そのうちのいくつかが幸運に恵まれるであろうことに期待する生き方をしています。

 逆に言うと、こぼれ種から立派な植物が育った場所こそが、彼らの生育にもっとも適した場所であるということがわかります。彼らの好きな環境を、彼らから教わることのできる貴重な機会でもあります。

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 さて、今日5月5日は男の子の節句、3月3日は女の子の節句ということで、4月4日をおかまの節句にしようという提案がありますが、真剣に検討されたという話は聞いたことがありません。そのような話を真剣に楽しむというような姿勢が、我々日本人に欠けている資質のひとつだなあと感じる今日この頃です。

 まじめなことは決して悪いことだとは思いませんが、時には公的な場ですらまじめにふざけるということがあってもいいのだと思います。その時に必要なことは、場の状況を正確に読み、的確にレスポンスするということでしょう。

 逆に、緊急を要する状況に遭遇した時には、すべての予定をキャンセルして協力することも、社会生活をしている人間として求められているマナーではないでしょうか。

 毎日のように次々と出てくる、コメントすることすら馬鹿馬鹿しくなるような、お粗末なJR西日本を巡る事例は、単にその会社が抱える問題というよりは、かなり多くの日本人が人間としての最低のマナーをしつけられて大人になることができていないという、極めて深刻な病変を示す症状なのではないかと思えてなりません。

 JR西日本を叩くのも結構なのですが、西日本叩きの前線にいるマスコミの記者達だって取材が終わったらボーリングや飲み会に行ったりしないのでしょうか。また、当日の事故現場であまりの惨状に取材を放棄して人命救助に参加したマスコミ記者というものはどのくらいいたのでしょうか。この瞬間にも会社や役所の不正を知りながら、告発することもなく一緒に不正を隠そうとしている人が、この国全体でどのくらいいるのかと想像すると、JRばかりを責めても何も変わらないのではないかと思えてきます。

 現時点では不正の嵐に隠れて、それほど大きく報道されてはいませんが、現場周辺の市民の多くが負傷者の救援に非常に大きな貢献をしたということです。当事者の無責任を考えると無関係の人々の信じられないくらい献身的なボランティア活動の話を聞くと、ほんとうにいろいろな人がいるものだという感慨に打たれます。

 どうして、このような異なる行動パターンを持った人が存在しているのでしょうか。植物の種と同じように、人間も置かれた環境によっていろんな運命にもてあそばれるのかもしれません。そしてその運命の結果として、様々な人が生み出されてくるのだとしたら、たくさんの「ちょっとおかしい」人々を生み出した環境、ごくごく少数ではあっても「素晴らしい」人々を生み出した環境といったものがいったいどんなものだったのかを、振り返ることには、大きな意味があるでしょう。

 ある会社に所属する人々が、同じような行動パターンを示しているのだとしたら、やはりその会社という環境を考え直すことが必要でしょう。そして原因と思われるものが明らかになったならば、改善することも可能なのだと思います。もしかすると、それが会社というような単位ではなく、日本という大きなレベルの環境が問題を抱えていることが明らかになったならば、とるべき道は日本そのものを変えることしかないのだと思います。

 それができないならば、我々は日本とともに滅びることを受け入れるしかないでしょう。

 そして、さらに問題となっている環境がグローバルな世界全体ということが明らかになり、それを修復することができないということならば、人類の滅亡を受け入れるしかなくなるのでしょう。

 何をそこまで話を大きくすることはないだろうと思われる方も多いでしょうが、そのくらいの想像力を持つことが目の前にある危機の乗り越える力となるのではないでしょうか。
by stochinai | 2005-05-05 23:59 | つぶやき | Comments(6)

コミュニケーション不全

 5月4日は、憲法記念日と子供の日にはさまれて評判の悪かった平日を、無理矢理に休日にするために作られた国民の休日です。何の意味もなくとも毎年コンスタントに3連休になるということから、もちろん国民の反対を受けることもなく1986年の施行以来、完全に定着しています。

 ところが今の国会で、4月29日を昭和の日、5月4日をみどりの日とする祝日法改正法案が提出・審議されており、成立すれば5月4日は曜日にかかわらず毎年祝日となるのだそうです(Wikipedia)。これは、我々休む人間にとっては何ら実質的意味はないことなのですが、へぇ~という感じですね。

 さらにWikipediaによれば、2009年9月21日(月)がハッピーマンデーの敬老の日になり、秋分の日が9月23日(水)になると計算されているので、その間にはさまれた9月22日が法的には国民の祝日になってしまう可能性が高いとのこと、これまた大へぇ~です。

 法律を作った時に5月4日以外も国民の祝日になるという可能性が議論されていたのでしょうか。もし、そうではないのに9月に国民の祝日が「できてしまった」のだとしたら、国会の法律作りも信用できません。逆に、それも「想定内」なのだとしてら、法律関係者はすごく頭が良いと感心します。

 さて、その国民の祝日にもかかわらず、私たち裁量労働制に従事する労働者にとっては、「違法な休日出勤」を強行しての打ち合わせ会議がありました。もちろん、研究上の必要から動物を飼育している以上、休日とか祝日とかを守ることは研究の放棄や中断を意味することもある訳で、どんな理由をつけてでも研究室に出てこなければならない大学院生をはじめとする研究者にとって、そうした法律など意味を持ちません。

 そうした「違法行為」をすべて厳密に取り締まって、日本の生物学を壊滅させることはもちろん文科省としても望んでいるわけもなく、きつくコントロールされることはないわけですが、時折就業規則などを見て自分の行動が「違法」と言われたりすると、力が抜けることは事実です。

 大学側から我々に送られているメッセージは、平日の午後10時以降から午前5時以前と休日の研究室使用という「違法行為」は見逃すけれども問題を起こさないでくださいね、ということなのだと思います。おそらく公式に質問すると、お互いの悲劇(休日出勤の否定)につながるのだと思いますので、表に出さないことでうまく動いているのだと(勝手に)解釈しています。

 世の中にはこういう類の無言のメッセージというのはたくさんあり、そのメッセージを適切に発信し、受け取った側は適切に解釈することも生きるためのコミュニケーション技術なのでしょう。昔の言葉では「あうんの呼吸」とか「腹芸」とか呼ばれていたものでしょうか。そうしたことを見誤ったために起こる典型的な悲劇がセクハラやアカハラなのではないかということも休日出勤で得られた貴重な確認事項でした。

 しかし、世の中の構成が複雑化してくると、その無言のコミュニケーションがうまく成立しない不全症に由来する問題があちこちで起こってきているようです。その解決策のひとつが、メッセージを明示的に発信する技術なのでしょう。今までは、個人の努力に任されていた科学者からのメッセージ発信についても、学問として扱う機が熟してきたのかもしれません。

 今後はこうしたことについても、積極的に考えていきたいと思います。
by stochinai | 2005-05-04 23:41 | つぶやき | Comments(2)

憲法記念日

 憲法記念日のニュースと言えば、護憲派と改憲派がそれぞれ集会を開くというものがトップニュースになるものと決まっていたのですが、今夜7時のNHKニュースはJR西日本事故関連のものでした。

 もちろん事故が大きかったということが最大の理由だと思うのですが、憲法改正が国会に憲法調査会が作られ改憲をタブーとしない実質的な議論が始まってしまっている現状で、改憲とか護憲というレベルは越えてしまったということが原因にもなっていると思います。

 憲法が施行されて58年経ち、多くの人が憲法のおかげで自分たちが幸せになってきたという段階を経て、憲法が本当にありがたいものなのかどうかということがわからないという人が多くなってきたのだと思います。

 第二次世界大戦でひどい目にあった国民の多くは、憲法のおかげでもう戦争をしなくても良くなったことを心から喜んでいたが戦後しばらくの護憲の時代だったのだと思います。私もそういう時代に教育を受けて育ちましたので、先生をはじめとしてマスコミなどのオピニオンのプロバイダーとしてのまわりは憲法の非戦主義を賛美する環境だったような記憶があります。

 しかし、私が社会科苦手少年だったいうことも原因だったのかもしれませんが、小中高校の時代に、それほど一所懸命に憲法の中身を教えられた記憶はありません。しかし、大学で教員免許取得ののために「日本国憲法」の単位を取らなければならなかったために改めて憲法条文を読んでみて、これは素晴らしいものだと認識(再認識と言うよりは、初認識)したというような記憶があります。

 ちょっと前に、声を出して読む日本語などというものがはやっていたと思いますが、その中に憲法を読むということが取り上げられていたでしょうか。教育委員会の方々は、君が代を歌うことを強制するのならば、憲法の条文を声に出して読むことも強制していただけないものでしょうか。おそらく、君が代の起立・斉唱に抵抗している先生達もたとえば憲法の前文の朗読などに対しては喜んで協力してくれるのではないかと思います。

 話が横にそれてしまいましたが、憲法にはなかなか素晴らしい感動的な文章の条文が並んでいます。憲法を改正したいと思っている人も、改正しない方がいいんじゃないかと思っている方も、実際に憲法の条文のいくつかを声に出して読んでみてください。その上で、改めてやはり修正すべきなのか、いやこれはやはり大切に守るべきなのかという議論をやればいいのではないかと思います。

 意外に、まだまだ使えるのではないか、というのが私の意見です。
by stochinai | 2005-05-03 23:59 | つぶやき | Comments(2)
 読売オンラインでまた、日本人の科学常識を笑いものにするような記事が載っています。文科省発のニュースというような書き方になっているのですが、例によって内容や文章のどこまでが誰の責任になるものなのかがよくわかりませんので、読む方としても何をどのように判断して良いのかが困る記事です。

 特に「国際比較の共通質問」というものが、答えに悩むような設問が目立ち、どうも怪しげだったので出典を探してみました。なんとか見つかったのが文部科学省附属の科学技術政策研究所が発行している政策研ニュースのNo.160(2002 2)というもののようです。

 その中に「科学技術に関する意識調査-2001年2~3月調査-」というレポートがあり、表1がまさに、読売が引用している【科学常識チェック、〇か×か】のようです。ところが、その引用の仕方が正確ではないのです。まず、原典を画像ファイルで示します。
 
引用は正確に(読売オンラインに苦言)_c0025115_2135728.jpg
 

 続いて読売の「引用」の一部です。

 〈1〉地球の中心部は非常に高温
 正しくは、「地球の中心部は非常に高温である」

 〈2〉すべての放射能は人工的に作られた
 「すべての放射能は人工的に作られたものである」

 〈3〉我々が呼吸に使う酸素は植物から作られた
 「我々が呼吸に使う酸素は植物が作ったものである」

 〈4〉赤ちゃんが男の子になるか女の子になるかを決めるのは父親の遺伝子
 「男か女になるかを決めるのは父親の遺伝子である」

 〈5〉レーザーは音波を集中することで得られる
 正しく引用

 〈6〉電子の大きさは原子よりも小さい
 「電子の大きさは原子の大きさよりも小さい」

 〈7〉抗生物質はバクテリア同様ウイルスも殺す
 正しく引用

 〈8〉大陸は何万年もかけて移動しており、これからも移動するだろう
 「大陸は何万年もかけて移動し続けている」

 〈9〉現在の人類は、原始的な動物種から進化した
 「現在の人類は原始的動物種から進化したものだ」

 〈10〉ごく初期の人類は、恐竜と同時代に生きていた
 「ごく初期の人類は恐竜と同時代に生きていた」

 〈11〉放射能に汚染された牛乳は沸騰させれば安全
 「放射能に汚染された牛乳は沸騰させれば安全だ」

 語尾や助詞、句点などがちょっとだけ違うだけのものが多いのですが、そのことでずいぶんと原文と異なるニュアンスになってしまってものがあります。特に(3)、(4)あたりはかなり黒に近い灰色だと思います。植物「が」作ったか、植物「から」作ったかは、全然意味が違います。また、ヒトの性がとりあえず遺伝子によって決められるのは受精の瞬間であり、その後赤ちゃんが本当の意味で男になるか女になるかは遺伝子以外の様々な要因によって揺らぐことガ知られていますから、赤ちゃんと書き足したことでとんでもない誤解を招きかねません。

#ヒトにはX染色体とY染色体という「性染色体」があり、基本的には女性はXX、男性はXYを持っています。つまり、Y染色体があれば男になり、なければ女になるというわけです。つまり、男性を決める遺伝子は男にしかないY染色体に載っているということになっています。

 報道記事を読む我々は、その改編されたものを基準に場合によっては文科省を批判することになるかもしれません。わかりやすくなるようにと良かれと思ってやった記者の「親心」は理解できなくもないですが、いやしくも科学リテラシーを問うという記事なのですから、その引用には科学的信頼性が必要だと思います。

 気をつけてもらいたいことと、今後科学関連の記事には専門家の査読を受けることを期待したいと思います。

 「日本の正答率は54%で13位。1位スウェーデンの73%、5位アメリカの63%などに比べ『常識の無さ』が目立っている」と書いている、記者の方の常識に問題があったら笑えませんよね。

追記:抗生物質に関しては、古典的な定義としては(7)を間違いとして良いのですが、最近どんどん使われるようになっている抗ウイルス剤なども抗生物質と呼ばれることがありますので、問題としては不適当だと思います(もちろん、これは読売さんの責任ではありません)。ちなみにウィキペディア(Wikipedia)では「今日では『微生物の産生物に由来する化学療法剤』が広義には抗生物質と呼ばれている。言い換えると、抗生物質は微生物の産生物に由来する抗菌剤、抗真菌剤、抗ウイルス剤そして抗腫瘍剤であり、その大半が抗菌剤である」と書いてあるので、こういう定義もあり得るようです。
by stochinai | 2005-05-02 21:38 | 教育 | Comments(15)
 5月にはなりましたが、札幌は朝から雨模様で、風も強く肌寒い一日でした。まあ、5月の始めの気候としてはこんなものが平均的かなと思います。

 私は近くのホームセンターで野菜の種を物色したりはしましたが、これくらい寒いと種を蒔いても芽が出ませんし、苗を植えても定着が難しい感じなので、こんな日は庭仕事はおやすみです。

 夜になって、北朝鮮がミサイルを発射したかも知れないというニュースがあるにはありましたが、ミサイルというよりはロケット花火の発射といったくらいの規模のものらしく、いちいちニュースに(しかもトップニュースに)するのも恥ずかしいくらいのようです。

 まあ、悪いニュースなどはないに越したことはないので、良いことなのだと思いますが、昔から不思議に思っていることの一つに、日曜日あるいは休日にはニュースが少ないということがあります。

 中学生の頃には、日曜日にニュースが少ない理由の一つは、ニュースを集めている記者も休んでいるからではないかと、考えていたこともあります。

 それだとあまりにも短絡的な気がするので、もうちょっと考えてみるとニュースの大きな供給源である政治の現場である議会や、経済の現場である会社も休みなので事件が起こりにくいということもあると思います。

 逆に「行楽型事故」というものは、日曜や休日に集中して起こりますが、よほど大きな事故を別にすると、街中や高速道路などで1人や2人規模の死亡事故は、平日に起こった場合には報道されないこともあり、行楽関連で起こった事故はそうしたものに比較するとずいぶんと大きく扱われているように思います。ということは、平日に比べると交通事故も日曜や休日には少ないのではないかと思われます。

 世の中の事件や事故は休みになると激減するのでしょうか。

 そうだとすると、人間の政治・経済活動そのものが事件や事故の根にある大きな要因ということになります。

 さらに考えると、そもそもニュースというものは人間に関係があるから大きく取り上げられるので、人里離れた奥地で大地震や大洪水や崖崩れがあっても、ニュースにならないことも多いでしょうし、そもそもそんなことが起こったかどうかすら認識されないことも多いでしょう。

 突き詰めて言うと、ニュースというものも人間のエゴイスティックな活動のひとつに過ぎないということなのでしょうね。

 サイモンとガーファンクルに「ニューヨークの少年」という曲があります。その中で、「僕が必要としているニュースは天気予報だけだ」という一節がありますが、そもそもニュースなんていうものが我々の生活に必要なのかどうかというところまで考えると、哲学的な議論になりそうな気がしてきます。
by stochinai | 2005-05-01 23:58 | つぶやき | Comments(5)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai