5号館を出て

shinka3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
 札幌は深い雪に覆われた冬から一転して急速に初夏へと向かっています。庭の手入れをしていると、こぼれ種からたくさんの芽が出ているのを発見します。

 一年草の多くは、花を咲かせ枯れてしまう前にたくさんの種を散らします。厳しい冬を越えて春になっても、種の多くは芽生えることもなく死んでしまうでしょう。たとえ幸運に恵まれ芽を出すことができたとしても、その多くが環境に恵まれずに成長することもできずに枯れてしまいます。しかし、ごくごく少数だとしても、幸運なものは昨年花を咲かせた親よりも立派にぐんぐんと育っていきます。

 同じような資質を持った種であるにもかかわらず、芽を出した環境の差が原因で非常に大きな差を持ってしまうのは、運命のいたずらと言わざるを得ませんが、逆に考えると将来の環境を予測して種を撒く場所をコントロールすることのできない植物は、たくさんの種をいろいろな場所にまき散らし、そのうちのいくつかが幸運に恵まれるであろうことに期待する生き方をしています。

 逆に言うと、こぼれ種から立派な植物が育った場所こそが、彼らの生育にもっとも適した場所であるということがわかります。彼らの好きな環境を、彼らから教わることのできる貴重な機会でもあります。

----

 さて、今日5月5日は男の子の節句、3月3日は女の子の節句ということで、4月4日をおかまの節句にしようという提案がありますが、真剣に検討されたという話は聞いたことがありません。そのような話を真剣に楽しむというような姿勢が、我々日本人に欠けている資質のひとつだなあと感じる今日この頃です。

 まじめなことは決して悪いことだとは思いませんが、時には公的な場ですらまじめにふざけるということがあってもいいのだと思います。その時に必要なことは、場の状況を正確に読み、的確にレスポンスするということでしょう。

 逆に、緊急を要する状況に遭遇した時には、すべての予定をキャンセルして協力することも、社会生活をしている人間として求められているマナーではないでしょうか。

 毎日のように次々と出てくる、コメントすることすら馬鹿馬鹿しくなるような、お粗末なJR西日本を巡る事例は、単にその会社が抱える問題というよりは、かなり多くの日本人が人間としての最低のマナーをしつけられて大人になることができていないという、極めて深刻な病変を示す症状なのではないかと思えてなりません。

 JR西日本を叩くのも結構なのですが、西日本叩きの前線にいるマスコミの記者達だって取材が終わったらボーリングや飲み会に行ったりしないのでしょうか。また、当日の事故現場であまりの惨状に取材を放棄して人命救助に参加したマスコミ記者というものはどのくらいいたのでしょうか。この瞬間にも会社や役所の不正を知りながら、告発することもなく一緒に不正を隠そうとしている人が、この国全体でどのくらいいるのかと想像すると、JRばかりを責めても何も変わらないのではないかと思えてきます。

 現時点では不正の嵐に隠れて、それほど大きく報道されてはいませんが、現場周辺の市民の多くが負傷者の救援に非常に大きな貢献をしたということです。当事者の無責任を考えると無関係の人々の信じられないくらい献身的なボランティア活動の話を聞くと、ほんとうにいろいろな人がいるものだという感慨に打たれます。

 どうして、このような異なる行動パターンを持った人が存在しているのでしょうか。植物の種と同じように、人間も置かれた環境によっていろんな運命にもてあそばれるのかもしれません。そしてその運命の結果として、様々な人が生み出されてくるのだとしたら、たくさんの「ちょっとおかしい」人々を生み出した環境、ごくごく少数ではあっても「素晴らしい」人々を生み出した環境といったものがいったいどんなものだったのかを、振り返ることには、大きな意味があるでしょう。

 ある会社に所属する人々が、同じような行動パターンを示しているのだとしたら、やはりその会社という環境を考え直すことが必要でしょう。そして原因と思われるものが明らかになったならば、改善することも可能なのだと思います。もしかすると、それが会社というような単位ではなく、日本という大きなレベルの環境が問題を抱えていることが明らかになったならば、とるべき道は日本そのものを変えることしかないのだと思います。

 それができないならば、我々は日本とともに滅びることを受け入れるしかないでしょう。

 そして、さらに問題となっている環境がグローバルな世界全体ということが明らかになり、それを修復することができないということならば、人類の滅亡を受け入れるしかなくなるのでしょう。

 何をそこまで話を大きくすることはないだろうと思われる方も多いでしょうが、そのくらいの想像力を持つことが目の前にある危機の乗り越える力となるのではないでしょうか。
# by stochinai | 2005-05-05 23:59 | つぶやき | Comments(6)

コミュニケーション不全

 5月4日は、憲法記念日と子供の日にはさまれて評判の悪かった平日を、無理矢理に休日にするために作られた国民の休日です。何の意味もなくとも毎年コンスタントに3連休になるということから、もちろん国民の反対を受けることもなく1986年の施行以来、完全に定着しています。

 ところが今の国会で、4月29日を昭和の日、5月4日をみどりの日とする祝日法改正法案が提出・審議されており、成立すれば5月4日は曜日にかかわらず毎年祝日となるのだそうです(Wikipedia)。これは、我々休む人間にとっては何ら実質的意味はないことなのですが、へぇ~という感じですね。

 さらにWikipediaによれば、2009年9月21日(月)がハッピーマンデーの敬老の日になり、秋分の日が9月23日(水)になると計算されているので、その間にはさまれた9月22日が法的には国民の祝日になってしまう可能性が高いとのこと、これまた大へぇ~です。

 法律を作った時に5月4日以外も国民の祝日になるという可能性が議論されていたのでしょうか。もし、そうではないのに9月に国民の祝日が「できてしまった」のだとしたら、国会の法律作りも信用できません。逆に、それも「想定内」なのだとしてら、法律関係者はすごく頭が良いと感心します。

 さて、その国民の祝日にもかかわらず、私たち裁量労働制に従事する労働者にとっては、「違法な休日出勤」を強行しての打ち合わせ会議がありました。もちろん、研究上の必要から動物を飼育している以上、休日とか祝日とかを守ることは研究の放棄や中断を意味することもある訳で、どんな理由をつけてでも研究室に出てこなければならない大学院生をはじめとする研究者にとって、そうした法律など意味を持ちません。

 そうした「違法行為」をすべて厳密に取り締まって、日本の生物学を壊滅させることはもちろん文科省としても望んでいるわけもなく、きつくコントロールされることはないわけですが、時折就業規則などを見て自分の行動が「違法」と言われたりすると、力が抜けることは事実です。

 大学側から我々に送られているメッセージは、平日の午後10時以降から午前5時以前と休日の研究室使用という「違法行為」は見逃すけれども問題を起こさないでくださいね、ということなのだと思います。おそらく公式に質問すると、お互いの悲劇(休日出勤の否定)につながるのだと思いますので、表に出さないことでうまく動いているのだと(勝手に)解釈しています。

 世の中にはこういう類の無言のメッセージというのはたくさんあり、そのメッセージを適切に発信し、受け取った側は適切に解釈することも生きるためのコミュニケーション技術なのでしょう。昔の言葉では「あうんの呼吸」とか「腹芸」とか呼ばれていたものでしょうか。そうしたことを見誤ったために起こる典型的な悲劇がセクハラやアカハラなのではないかということも休日出勤で得られた貴重な確認事項でした。

 しかし、世の中の構成が複雑化してくると、その無言のコミュニケーションがうまく成立しない不全症に由来する問題があちこちで起こってきているようです。その解決策のひとつが、メッセージを明示的に発信する技術なのでしょう。今までは、個人の努力に任されていた科学者からのメッセージ発信についても、学問として扱う機が熟してきたのかもしれません。

 今後はこうしたことについても、積極的に考えていきたいと思います。
# by stochinai | 2005-05-04 23:41 | つぶやき | Comments(2)

憲法記念日

 憲法記念日のニュースと言えば、護憲派と改憲派がそれぞれ集会を開くというものがトップニュースになるものと決まっていたのですが、今夜7時のNHKニュースはJR西日本事故関連のものでした。

 もちろん事故が大きかったということが最大の理由だと思うのですが、憲法改正が国会に憲法調査会が作られ改憲をタブーとしない実質的な議論が始まってしまっている現状で、改憲とか護憲というレベルは越えてしまったということが原因にもなっていると思います。

 憲法が施行されて58年経ち、多くの人が憲法のおかげで自分たちが幸せになってきたという段階を経て、憲法が本当にありがたいものなのかどうかということがわからないという人が多くなってきたのだと思います。

 第二次世界大戦でひどい目にあった国民の多くは、憲法のおかげでもう戦争をしなくても良くなったことを心から喜んでいたが戦後しばらくの護憲の時代だったのだと思います。私もそういう時代に教育を受けて育ちましたので、先生をはじめとしてマスコミなどのオピニオンのプロバイダーとしてのまわりは憲法の非戦主義を賛美する環境だったような記憶があります。

 しかし、私が社会科苦手少年だったいうことも原因だったのかもしれませんが、小中高校の時代に、それほど一所懸命に憲法の中身を教えられた記憶はありません。しかし、大学で教員免許取得ののために「日本国憲法」の単位を取らなければならなかったために改めて憲法条文を読んでみて、これは素晴らしいものだと認識(再認識と言うよりは、初認識)したというような記憶があります。

 ちょっと前に、声を出して読む日本語などというものがはやっていたと思いますが、その中に憲法を読むということが取り上げられていたでしょうか。教育委員会の方々は、君が代を歌うことを強制するのならば、憲法の条文を声に出して読むことも強制していただけないものでしょうか。おそらく、君が代の起立・斉唱に抵抗している先生達もたとえば憲法の前文の朗読などに対しては喜んで協力してくれるのではないかと思います。

 話が横にそれてしまいましたが、憲法にはなかなか素晴らしい感動的な文章の条文が並んでいます。憲法を改正したいと思っている人も、改正しない方がいいんじゃないかと思っている方も、実際に憲法の条文のいくつかを声に出して読んでみてください。その上で、改めてやはり修正すべきなのか、いやこれはやはり大切に守るべきなのかという議論をやればいいのではないかと思います。

 意外に、まだまだ使えるのではないか、というのが私の意見です。
# by stochinai | 2005-05-03 23:59 | つぶやき | Comments(2)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai