5号館を出て

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 日本が民主主義国家であるとして考えてみます。これが否定されると、ここで終わりなのですが、おそらく憲法や法律でそれは確認できるはずです。

 私の単純な理解では、民主主義とは民意によって政治が行われる体制です。国政に民意を反映させるためのもっとも大切なステップは国政選挙です。

 国政選挙によって選ばれた国会議員は、罷免されるまでは民意の代表として国会で様々な活動を行います。国会議員によって、国政の長としての総理大臣が選ばれます。間接的ではありますが、それは民意によって選ばれたとみなすことができます。総理大臣が内閣を組織して国政を運営していきます。もちろん、国会議員がその監視をしますが、内閣によって行われる政治は民意を反映しているものとみなすことができます。

 国政選挙から時間がたってきたり、選挙の時には争点にならなかった問題がでてきたりすると、内閣が行っている政治が民意に添っているかどうかが、だんだんと怪しくなってきます。

 本来ならば、そういう時にはまた国政選挙を行えば良いのですが、お金と時間がかかりますので、そうそう何回も選挙はできません。

 そういう時に、内閣はさまざまな手段を用いて民意を探る努力をし、民意に添うような政治を行います。民意に反した政治を行った場合には、不信任を受けて内閣総辞職か、衆議院解散総選挙などを行って民意を再確認しなければなりません。

 タウンミーティングというものは、小泉内閣が民意を探るために採用した公式のプロジェクトです。自民党が自腹を切って民意を探ったというようなものではなく、税金と官僚を投入して行った行政行為です。

 民意という民主主義の根幹にあるものを、公式の行事をおこなって探り、民意が今こうなっていますということで小泉内閣が延命して、次の安倍内閣へとバトンタッチされています。

 その根幹の民意を探るプロジェクトが、偽装だったということが発覚しました。つまり、民意ではないものを民意であるとして我々国民をだましたということです。今の内閣総理大臣になっている人が官房長官だった時にも、政府ぐるみの「やらせ偽装タウンミーティング」が行われていました。本人もそれを認めていますから、それは事実です。

 日本の政治体制のもっとも根幹にあるルールを踏みにじった当の本人が、現職の総理大臣におさまっており、責任を取ると言って給料のほんの一部を返納するようですが、どう考えても納得できません。彼にとっては、100万円ほどのお金はそれほどのペナルティにもならないことでしょう。罰にならないと思います。

 競馬やオリンピックで薬物使用が発覚したら、賞やメダルが剥奪されます。さまざまな賞においても、審査員を買収したことが発覚したら、罰金ですむとは考えられません。それぞれの世界から、永久追放ということになる可能性が高いと思います。

 なんで、政治の場合だけそうならないのでしょうか。

 どう考えても、内閣総辞職・総選挙しかないと思うのですが、そういう声が大きくならないということは、日本は民主主義国家であることを放棄したということになると思います。

 戦争の放棄を放棄して、代わりに民主主義を放棄することにしたのでしょうか。
# by stochinai | 2006-12-14 18:23 | つぶやき | Comments(11)
 来るべき貧困状態へ備えて、我が大学も教育の合理化を始めています。特に全学教育では、非常勤講師を削減して将来はゼロにすることと、大人数教育の可能性を探るための様々な試みを行っています。

 特に、理科科目では中学高校での履修範囲の大幅削減と、高校では選択科目として履修してこない学生が大幅に増えたことを受けて、基本的には全科目が「初習者」を相手に行わなければならない、いわゆる2006年問題への対処が始まっているのです。

 そこで、私は水産系4クラス合同という200人以上のクラスを相手に行う生物学のパイロット授業に参加しております。200人以上のクラスを毎週講義するということは、真面目にやろうとするととてもひとりでできるものではありません。そこで、3名の教員と2名のTAでチームを作っています。

 水産系の場合は、6割程度が高校で生物を選択して、いわゆる生物IIBまで履修してきているのですが、残りの4割は生物を習ったのは中学が最後という学生です。昔はそのグループを二つに分けてレベルの違う生物学を教えていたのですが、それだといつまでたっても両者のレベルが並ばないことと、高校までに習う生物学は時代遅れで、最新の生物学に関して言えば全員が初習ということになること、それと教員の数が減ってきているということから、両者を一緒にして教育してしまおうというのが、「新しい大学」の考え方のようです。

 というわけで、200余名の基礎知識のない学生に、最新の生物学を、やさしくわかりやすく、しかも飽きさせないように、という講義をしなければなりません。毎回、入念に準備をして講義に望むわけで、準備も大変ですし、学生の気を惹きつけながら飽きさせないようにすると同時に、90分の講義が終わる頃までには、生物学に対する新しい知識と考察力を身につけさせなければなりませんから、それはもう大変です。

 いくら努力をしても、200余名も学生がいるといろいろと苦情も出てくるもので、講義の後に行う小テストの最後に、疑問・質問・意見・要望などを書いてもらうと、ぞろぞろと出てきます。

 私は結構、講義の中にのめり込んで話をしていますので、たとえある数の学生が私語をしていようと、それに負けないくらいのパワーとスピードで講義をやってしまいますので、学生の方が根負けして話すのをやめてしまうことが多いと思っていたのですが、それでも5人くらいの学生からまわりの学生の私語のせいで講義に集中できないからなんとかして欲しいという要望が出てきました。

 たとえ5人でも、一所懸命講義に打ち込みたいという姿勢を持った学生の意見をないがしろにするわけにはいきません。そこで、今日は私語をゼロにする試みを準備して講義に望んだところ、講義室は90分間みごとに静まりかえっておりました。

 その秘策とは、インタビュー用のマイクを2本用意したことです。そして、講義の前に「私語があったらTAがその学生のもとに駆けつけてマイクを渡すので、みんなに話を聞かせてやって欲しい。さらに、もし講義の内容に対する質問だったら、大歓迎です」と宣言したのです。実際にはマイクが使われることはありませんでした。まあ暇を持てあましたのか、いつもより寝ている学生は多かったような気もしましたが、講義室は気持ちが悪いくらい静かでした。文句を言っていた学生からは、感謝のコメントをたくさんもらいました。

 私はそこまでする必要はないと思うのですが、この方法で私語は完封できそうです。興味のある方は、お試し下さい。

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 さて、先週でCoSTEPウィークは終わっているのですが、夜は理学部大講堂でCoSTEPの拡大講義として一般に開放された「K本さんのビデオ基礎講座」を聞きに行きました。さすがに元N*Kのディレクターだけあって、K本さんのビデオ講座はとても実用的で、役に立つことばかりでした。(実は、講座のことはすっかり忘れていたのですが、Salsaさんが「行きますよ~」と迎えにきてくださったのです。ありがとうございました。)

 普段はデジカメしか使うことのない私ですが、これならビデオも撮れるかもしれないと思わせられたものです。ビデオ撮影の神髄として、私が理解したことは次のことでした。

・ ビデオ撮影では、後で編集することを考えながら、素材として使える短いショットを撮りだめていくこと。

・ ズーム・パン・ドリーという特殊ショット以外では、カメラを構えたらフレームを動かしてはいけない。

 特に、後者は目からウロコの落ちる思いでした。つまり、ビデオのショットというものは数秒間かけたスチール写真だと思って撮るべし、ということではないかと得心がいったのです。

 この理解でよろしいでしょうか。K本先生!
# by stochinai | 2006-12-13 23:32 | 大学・高等教育 | Comments(6)

他人を見下す若者たち

 今頃と言われてしまうかもしれませんが、先週からお風呂図書館(もちろん自宅です)の中で読んでいた本「他人を見下す若者たち」を読了しました。

 なかなか、おもしろかったです

 少し前まで私が考えていたことは、今の若者たちは実際に自分を試すことから逃げており、逃げている間はまだ試されていないわけですから、論理的には「自分には無限の可能性がある」と思うことも可能なわけで、その状態(昔ならば執行猶予と言っていたのでしょうが)をできるだけ長く続けようとしているのではないかということでした。

 それはおそらく、この本で「仮想的有能感」という概念で語られていることと似たようなことだと感じました。つまり、確かにこの本の著者のいうような傾向は私が接している若者たちに広がっていると言って良いと思います。

 しかし、今やそれは若者たちだけのことではなく、その気持ちのまま年を重ねた「おとな」もたくさんいる時代になってしまったようです。

 若者特有の有能感あるいは傲慢さというものは昔も同じようにあったのでしょうが、それは様々な経験を積むうちに、年とともに自然に消えていくようなものだったのだと思います。しかし、今はその気持ちを持ち続けたまままま年を取る人が増えているということなのかもしれません。
 いずれにせよ今後予想される社会は、個々バラバラの社会である。誰もが競争に勝ち抜くために、先手をうつかたちで、まわりの相手を軽蔑したり軽視したりするのである。それは人間同士の暖かみが伝わらない冷え切った社会である。学校でも会社でも、人は自分の幸せだけに関心を持ち、みんなで支え合う農耕社会的な要素をすっかり忘れてしまうだろう。
 いじめも、競争社会も、自己責任も、リストラも、刺客選挙も、使い捨て議員も、この原因でみんな説明できてしまうところが怖いですね。

 しかも、みんなが被害者意識を持っているのです。
 現在、多くの人達が、この厳しい世の中で自分だけが犠牲者で、ストレスを多分に受けていると思いこんでいる。家族ですらも母は娘に、「あなたがまじめに勉強しないから、私はストレスがたまって食事も十分にできない」と嘆く。娘は娘で「お母さんがあまりうるさいからストレスがきつくて下痢が続き、勉強どころでない」と言ってキレる。上司は、いたらない部下のせいで、自分がこんなにストレスに苦しめられていると思っており、部下は、上司がもう少しましだったら、俺たちの仕事のストレスは半減すると考えられている。
 親殺し、子殺しに親殺しの家庭内殺人、会社内殺人、すべての原因がここに見えてしまいます。

 ここから抜け出すのはなかなか大変そうですが、ひとつのヒントは「不真面目のすすめ」かもしれません。

 これについては、また改めて考えてみたいと思います。
# by stochinai | 2006-12-12 23:19 | つぶやき | Comments(6)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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