5号館を出て

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スズメが消えた!

 サイレント・スプリングを目撃しているような気分です。

 今年の冬は例年にない大雪だったので、わが家のバードテーブルもしばしば雪に埋没してしまい、その影響でスズメたちがどこか別の餌場へ移動したのだと思っていました。それにしても、昨年の同じ時期には毎日数十匹のスズメが群がっていた餌台にせいぜい来ても2-3匹のスズメしか見られない日が続いていたので、ひょっとすると何がもっと大きな異変が起こっているのかもしれないという、なんとはなしの不安感を抱きながら春を迎えました。春になれば戻ってくるだろうと思っていましたが、スズメの声で起こされることなどまったくない日々が続いています。

 そんな折、数日前に北海道新聞でスズメが減っているという記事が出ていたという情報をもらいました。今なら、5日付けのオンラインニュースが読めます。
スズメ、どこへ-全道各地で今冬 大量死?移動?謎めく原因

 身近な野鳥スズメがこの冬、全道各地で姿を見せなくなったとの報告が相次いでいる。バードテーブルの餌消費量が激減したというところや、巣作りが始まらない地域も。原因について研究者らも「見当がつかない」と首をかしげ、農家は「田畑の害虫が増えたら困る」と心配顔だ。

 「スズメを見かけない」という情報が出始めたのは、今年一月末ごろから。日本野鳥の会札幌支部事務局の住友順子さんは「『餌台に全く来ないが、なぜだろう』と、市民からの問い合わせが道央各地から来ている」と話す。

 私の家周辺だけの減少ではなく、全道的に起こっているということで、やはりと思うと同時にびっくりしています。記事では、札幌の清田区、旭川、網走からのレポートがありますが、手稲でも減っているというブログの記事も出ています。北海道全域で起こっていることは間違いないようですが、ひょっとすると全国的に起こっているかもしれません。情報をお持ちの方は、是非教えていただきたいと思います。

 ネットで調べてみると、スズメの減少は世界的に起こっている現象のようです。日本のスズメはヨーロッパのイエスズメとは違って、モリスズメの系統だということですが、「ヨーロッパではここ10年ほど、イエスズメの数が激減しているらしい」との記述を発見しました。

 ヨーロッパのスズメ減少に関しては、2001年頃からニュースになっているものが見つかりました。2001年の記事では、英国のスズメはもはや絶滅の危機にあるようです。
スズメなぜ消えた 英国で9割減: 朝日新聞 2001.04.05(WEB)
東南部の都市部の公園でスズメ、ムクドリが激減: EICネット 2002.08.01
英国でスズメが激減 携帯電話の中継アンテナが原因か: 日刊ベリタ 2003年01月19日
 この冬に入って急に数が減ったので、ついついこの冬の大雪やトリインフルエンザの影響などを考えてしまいそうになるのですが、この図を見ると、1960年代をピークに国内全体のスズメの数は激減を続けているというようですので、この冬がある種の「臨界点」ということで目に見える変化が起こっただけだったということなのかもしれません。

 思い返してみれば、私の記憶にあるだけでも札幌市街地からカエルが消え、セミが消えたのを目撃してきました。しかし、それらの動物が札幌の都市化にともなって消えたのに対して、都市化をものとはせずにたくましく生きてきたスズメが消えるということの持つ意味はずいぶん違うと感じられます。

 本気で調査・研究する必要がありそうに思えます。環境省だけにまかせているのではなく、若い大学院生などがテーマにしてくれると心強いと思います。あなた、やってみませんか。
# by stochinai | 2006-04-09 23:29 | 札幌・北海道 | Comments(40)

春のめざめ

 曇りで寒々とした天気の中も雪解けは順調に続き、昨年雪の中に見送った風車が姿を現しました。見るも無惨な姿になってしまいました。雪に埋もれる前に回収してやればよかったですね。ゴメンナサイ。
春のめざめ_c0025115_1432949.jpg

 それはさておき、わが家の庭に最初に咲いた花です。去年もこれが春一番だったようです。植物の時計は驚異的です。
春のめざめ_c0025115_14334599.jpg

 (これは、クリックすると拡大します。)
# by stochinai | 2006-04-09 14:37 | つぶやき | Comments(0)
 GEOにはそれほど本数が入っていなかったので、旧作に落ちてからもなかなか借りることができなかったのですが、ようやく借りて見ることができました。週末DVD映画館第1幕「ニュースの天才(Shattered Glass)」の開場です。

 ところが、期待が大きすぎたこともありますが、映画としてはそれほど良くできたものではないと思いました。その大きな原因のひとつが実話に忠実に描こうとしたことだと思います。世の中にある実際の話のほとんどはそれほどおもしろいものでもないし、そこかしこに矛盾だらけの行動をする人間が出てくるのも、いかにも事実をそのまま描いたせいだろうと同情してしまうほどでした。

 映画としておもしろくしかもしっかりしたものにしたければ、事実をそのまま描くだけではダメだということでしょう。いかにも本物らしい迫力を出すためには、事実をそのまま右から左へ出すだけではダメなのだという教訓は、映画のテーマと考え合わせるといかにも皮肉ですが。

 原作者でもある主人公は、おそらく読者におもしろい記事を提供しようというサービス精神が人一倍旺盛な人間だったのだと思います。ただしそれと同時に、ニュースとエンターテインメントの区別がつかない非常識人間でもありました。

 ニュースも読まれてこそ意味を持つものですから、読まれないのではニュースを発信する意味はないという意見にも一理あります。そして、読まれるためにはおもしろい記事を書き続けて、あいつの各記事はおもしろいという評判を取る必要がある、と主人公は思ったのかもしれません。おそらく同時に、名声とお金も欲しかったのだと思います。

 いずれにしても、人をだまし続けるための才能があったことは間違いありません。

 また、だまされた側の同僚、会社、そして読者も、それだけ長い間「ニュース」のねつ造を許し続けたということは、本当か嘘かということよりも、おもしろいかどうか、売れるかどうかということが評価の基準として重視されていたということも推察されます。

 この映画をみていて、昨今の科学論文捏造事件を思い出しました。

 我々の研究が論文になる時と同じように、実験ノートに相当する取材ノートが重要だというシーンが何度も出てきて、記事に疑いが生じた時に編集長は取材メモを提出させてチェックすることとニュースソースとのコンタクトをとろうとしますが、そこまで追いつめられると主人公は取材メモを偽造し、存在しないニュースソースのホームページを作ったり、弟にニセ電話をさせるということまでも始めて、崩壊への道をたどることになります。

 科学論文のねつ造事件の時にも、実験ノートのチェックが要求されるとともに、そこではっきりしなければ再実験をして結果の再現性の証明が求められます。実験ノートがなかったり、実験が再現できなければ、研究者としては引退してもらわざるを得ません。

 ニュースでは編集者や法律家さらには専門のチェック係が記事をチェックしているにもかかわらず、ニセ記事を根絶することはできません。科学論文でも、研究ボスやレフェリーや雑誌の編集者のチェックをへても、ねつ造論文を根絶することはできません。

 この映画に教訓があるとすれば、ライバル会社の調査からねつ造が暴かれ始めたということです。東大の論文捏造事件でもいわばライバルとでもいうべき同業研究者の学会からねつ造疑惑追求が始まっています。

 倫理教育や罰則強化も無駄だとは言いませんが、この「正常な競争環境」こそが不正を防ぐ大きな力になることを、我々はもっと意識して良いと思います。

 マスコミにしろ研究の世界にしろ、大きなところが一人勝ち状態になっていることが不正を生む温床になりがちですので、たくさんのライバルがある程度の力を持って並立し、緊張感のある状況になっていることが必要だと思います。

 そういう意味で、カラオケジャーナリズムと言われようと一億総ジャーナリストと言われようと、インターネットを通じて誰でもが簡単に意見を表明できるようになってきた今の状態は、ジャーナリズムの不正を防ぐ良い環境だと言うこともできるでしょう。

 同じように研究の世界でも、中小の研究室が研究を続けることのできる環境を取り戻していくことが、論文のねつ造を防ぐひとつの方策となりうると思います。

 また、例によって我田引水的な結論になってしまいましたが、人間のやることですから、ジャーナリズムも研究もそんなに違う構造にはなっていないと感じさせられた映画でもありました。
# by stochinai | 2006-04-08 23:46 | つぶやき | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai