2004年 11月 18日
理系音痴が動かす国
昨日の毎日新聞理系白書に「理系音痴」が動かす国という、元村有希子さんの署名記事が載っています。
悲しくも恐ろしい言葉「21世紀の今も、年4兆円近い科学技術予算を左右するのは『科学音痴』を公言する政治家たちだ」というのは、日本の現状のことです。
この20年くらいをかけて、政府は理系の大学院生を大量に増やして、彼らの受け皿を作らなかったことを、かねがね不審に思っていたのですが、特に考えがあってやっているわけではなく、単に「音痴」なだけなのかもしれません。つまり、理系の大学院を出るということが、ひとりひとりの人生にどのような意味を持つのかがわかっていないのでしょう。職がないなら別のことやれば良い、と簡単に思っているのだと思います。しかし、大学院だけではなくポスドクを何年もやって、40歳くらいになった人間に「職がなかったら、別のことやれ」って、簡単に言って欲しくないですよね。
そんな中、米100俵の総理に対し、総合科学技術会議で先月、有識者議員の一人が次のような進言をしたそうです。
「科学技術振興には社会の理解が不可欠で、それには合言葉が有効だ。例えばケネディ元大統領は『人類を月に送る』、クリントン氏は『ヒトゲノム解読』を掲げた」そうです。ここはひとつ日本でもやりませんか、ということを言いたかったのだと思います。
ところが、「あのスローガン好きの首相が、このアドバイスには関心を示さなかった」と書いてあります。やっぱり。
このエピソードを読んで、日本政府が考えている科学技術振興というのは、科学を振興させたいということではなく、科学技術振興を「何か」に利用したいだけなのだということを確信しました。彼らにとっての科学とは、経済発展という目的のための手段のひとつにすぎず、別の方法で目的に達成されるなら、それで良いということだと思います。
首相が出てきたついでに、前から気になっていたことをひとつ。首相は、「やればできる」という言葉がお好きのようですが、この言葉ほど落ちこぼれた人間を傷つけるものはないということをわかって欲しいと思っています。
もちろん、やればできると思って努力することは貴重なことなのですが、やってもできないことがあると知ることは、もっと意味があることだと思います。
今の若者達は、首相をはじめとした方々の刷り込みにより「自分だって、やればできる」と思っている人が多いようですし、事実そのように言う学生も多いです。
そして、最悪なことに「やればできると思っている」にもかかわらず、決してやろうとしないので、「やってもできない」という境地に到達できないのです。
いつまでたっても、「やればできる」というおまじないを頭の中で繰り返しながら、トライをしないままに年を取っていきますので、かなりの年齢になっても「自分はやればできるのだけれども、やる気が起こらないのでやっていないだけだ」という不思議な思考を持ち続けている若者がかなり見受けられます。
北大の保健管理センター精神衛生相談室カウンセラーの市川啓子さんが書いたただよう学生の心(4)の中に、このことが鋭く指摘されています。「カウンセリングなどを通して若者の無気力に向き合った時に感じるのが、彼らのなかにある何ともいえない『万能感』の存在です」が、まさにこれだと思います。以下に、市川さんの言葉を転載させて頂きますが、さすがにプロの解釈はすごいと脱帽です。
「人間は、幼いある時期に『幼児的万能感』を持つといわれています。自分の望むものは与えられるという感覚です。しかし、成長に伴ってさまざまな葛藤や挫折にぶつかり、現実は自分の思うどおりにはいかないという体験を積み重ねるようになります。そのことを通じて現実を検討する力や、等身大の自分を認識できるようになるといわれていますが、思春期以降もこの「幼児的万能感」から抜け出すことができない若者が増加しているのではないかという見方があります。」
というわけで、首相にお願いがあります。これからは「やればできる」から、「やればできるかどうか、まずはやってみよう」と叫んでもらいたいと思います。よろしく、お願いします。
悲しくも恐ろしい言葉「21世紀の今も、年4兆円近い科学技術予算を左右するのは『科学音痴』を公言する政治家たちだ」というのは、日本の現状のことです。
この20年くらいをかけて、政府は理系の大学院生を大量に増やして、彼らの受け皿を作らなかったことを、かねがね不審に思っていたのですが、特に考えがあってやっているわけではなく、単に「音痴」なだけなのかもしれません。つまり、理系の大学院を出るということが、ひとりひとりの人生にどのような意味を持つのかがわかっていないのでしょう。職がないなら別のことやれば良い、と簡単に思っているのだと思います。しかし、大学院だけではなくポスドクを何年もやって、40歳くらいになった人間に「職がなかったら、別のことやれ」って、簡単に言って欲しくないですよね。
そんな中、米100俵の総理に対し、総合科学技術会議で先月、有識者議員の一人が次のような進言をしたそうです。
「科学技術振興には社会の理解が不可欠で、それには合言葉が有効だ。例えばケネディ元大統領は『人類を月に送る』、クリントン氏は『ヒトゲノム解読』を掲げた」そうです。ここはひとつ日本でもやりませんか、ということを言いたかったのだと思います。
ところが、「あのスローガン好きの首相が、このアドバイスには関心を示さなかった」と書いてあります。やっぱり。
このエピソードを読んで、日本政府が考えている科学技術振興というのは、科学を振興させたいということではなく、科学技術振興を「何か」に利用したいだけなのだということを確信しました。彼らにとっての科学とは、経済発展という目的のための手段のひとつにすぎず、別の方法で目的に達成されるなら、それで良いということだと思います。
首相が出てきたついでに、前から気になっていたことをひとつ。首相は、「やればできる」という言葉がお好きのようですが、この言葉ほど落ちこぼれた人間を傷つけるものはないということをわかって欲しいと思っています。
もちろん、やればできると思って努力することは貴重なことなのですが、やってもできないことがあると知ることは、もっと意味があることだと思います。
今の若者達は、首相をはじめとした方々の刷り込みにより「自分だって、やればできる」と思っている人が多いようですし、事実そのように言う学生も多いです。
そして、最悪なことに「やればできると思っている」にもかかわらず、決してやろうとしないので、「やってもできない」という境地に到達できないのです。
いつまでたっても、「やればできる」というおまじないを頭の中で繰り返しながら、トライをしないままに年を取っていきますので、かなりの年齢になっても「自分はやればできるのだけれども、やる気が起こらないのでやっていないだけだ」という不思議な思考を持ち続けている若者がかなり見受けられます。
北大の保健管理センター精神衛生相談室カウンセラーの市川啓子さんが書いたただよう学生の心(4)の中に、このことが鋭く指摘されています。「カウンセリングなどを通して若者の無気力に向き合った時に感じるのが、彼らのなかにある何ともいえない『万能感』の存在です」が、まさにこれだと思います。以下に、市川さんの言葉を転載させて頂きますが、さすがにプロの解釈はすごいと脱帽です。
「人間は、幼いある時期に『幼児的万能感』を持つといわれています。自分の望むものは与えられるという感覚です。しかし、成長に伴ってさまざまな葛藤や挫折にぶつかり、現実は自分の思うどおりにはいかないという体験を積み重ねるようになります。そのことを通じて現実を検討する力や、等身大の自分を認識できるようになるといわれていますが、思春期以降もこの「幼児的万能感」から抜け出すことができない若者が増加しているのではないかという見方があります。」
というわけで、首相にお願いがあります。これからは「やればできる」から、「やればできるかどうか、まずはやってみよう」と叫んでもらいたいと思います。よろしく、お願いします。
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by stochinai
| 2004-11-18 17:29
| 科学一般
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