2004年 12月 12日
北海道に新幹線
新幹線が函館まで延長されることが、政府・与党の整備新幹線検討委員会のワーキンググループの会合で決まったというニュースが10日に出ました。今の日本の政治状況では、政府・与党である自民党と公明党が決めたことは、基本的にすべて実行されることになっていますので、これは決定ということと同じです。
北海道にも新幹線を整備するということは、1970年に全国新幹線鉄道整備法ができた頃から想定されており、1972年には旭川までが計画されていましたが、翌1973年に終点が札幌ということに変更されています。いずれにしても、計画は実行に至らず30年以上が経過しました。
その間に、JRの民営化やバブル経済の崩壊、さらには航空料金の変動料金設定などが展開され、北海道から本州へ渡る主要な手段は陸上に頼らなくなってきている現実があります。
個人的には、札幌から東京の寝台列車である北斗星や大阪へつながるトワイライト・エクスプレスなどが好きだったのですが、時間がかかる上に料金が高く、最近では出張の手段として利用することすら許可されなくなっています。
そういう現実がありますから、30年以上も前に計画された新幹線を北海道まで引っ張ってくることの意味も変わってきているはずなのに、北海道では選挙がある度に自民党候補者の公約には必ずといって良いほど「新幹線の早期着工」が載せられて来ているという特殊な事情もあります。
今の高橋知事に限らず知事になった人は常に「道民の悲願」としての新幹線工事着工という言葉を使い続けてきました。
新幹線の延長により、冷え込んでいる北海道の経済が、完成までの大きな公共工事の投資効果と、完成後の交通の発達による経済効果があると考えてのことでしょうが、30年前とは明らかに状況が異なる現在では、その内容についての詳細な再検討を要求されているはずです。
30年間もの間、求め続けてきたことだから、実現することになったというニュースに興奮する人がいても不思議はありませんが、この30年の間に生まれた道民の約3分の1の人たちにとっては、新幹線の開通は悲願でも何でもないのではないでしょうか。
さらに現実的な問題を考えてみましょう。北海道分(新青森から新函館まで)の工事予算は5000億円なのだそうですが、そのうち660億円を北海道(民)が負担しなければならないようです。10年後開業するとして、開業後30年で返還しなければならないので、40年間で返せば良いということなのですが、試算(私はまったく理解していません)によると、ピーク時には年間で30億円を支払わなくてはないこともあるのだそうです。
道民の数は500万人と良くいわれますので、1万人あたり1億円くらいの負担ということになるのでしょうか。概算して1人1万円くらいとすると、平均的4人家族1件あたり4万円の増税(あるいは税不足・あるいは税使用の転換)が必要になります。それを支払ってまで、あまりたくさんの人が使うことを予測することができない函館までの新幹線を引く意味はあるでしょうか。
もちろん象徴的な意味で、ようやく北海道が日本の一部になる(北海道では、今でも本州のことを「内地」と呼ぶお年寄りは多いのです)ということに投資するという理由は成り立ちうると思います。しかし、たとえそれを採用するとしても、もう一度道民全体に問い直して負担を覚悟しての新幹線誘致をするのかしないのを問い直すべきではないでしょうか。
新聞によれば、北海道では野党でも新幹線に反対する意識は弱いということですが、道民全体がどう考えるかについては未知数だと思いますので、ここでもう一度「道民30年の悲願」がほんとうかどうかの再確認をしてみるのが、本当の民主主義というものでしょう。
北海道にも新幹線を整備するということは、1970年に全国新幹線鉄道整備法ができた頃から想定されており、1972年には旭川までが計画されていましたが、翌1973年に終点が札幌ということに変更されています。いずれにしても、計画は実行に至らず30年以上が経過しました。
その間に、JRの民営化やバブル経済の崩壊、さらには航空料金の変動料金設定などが展開され、北海道から本州へ渡る主要な手段は陸上に頼らなくなってきている現実があります。
個人的には、札幌から東京の寝台列車である北斗星や大阪へつながるトワイライト・エクスプレスなどが好きだったのですが、時間がかかる上に料金が高く、最近では出張の手段として利用することすら許可されなくなっています。
そういう現実がありますから、30年以上も前に計画された新幹線を北海道まで引っ張ってくることの意味も変わってきているはずなのに、北海道では選挙がある度に自民党候補者の公約には必ずといって良いほど「新幹線の早期着工」が載せられて来ているという特殊な事情もあります。
今の高橋知事に限らず知事になった人は常に「道民の悲願」としての新幹線工事着工という言葉を使い続けてきました。
新幹線の延長により、冷え込んでいる北海道の経済が、完成までの大きな公共工事の投資効果と、完成後の交通の発達による経済効果があると考えてのことでしょうが、30年前とは明らかに状況が異なる現在では、その内容についての詳細な再検討を要求されているはずです。
30年間もの間、求め続けてきたことだから、実現することになったというニュースに興奮する人がいても不思議はありませんが、この30年の間に生まれた道民の約3分の1の人たちにとっては、新幹線の開通は悲願でも何でもないのではないでしょうか。
さらに現実的な問題を考えてみましょう。北海道分(新青森から新函館まで)の工事予算は5000億円なのだそうですが、そのうち660億円を北海道(民)が負担しなければならないようです。10年後開業するとして、開業後30年で返還しなければならないので、40年間で返せば良いということなのですが、試算(私はまったく理解していません)によると、ピーク時には年間で30億円を支払わなくてはないこともあるのだそうです。
道民の数は500万人と良くいわれますので、1万人あたり1億円くらいの負担ということになるのでしょうか。概算して1人1万円くらいとすると、平均的4人家族1件あたり4万円の増税(あるいは税不足・あるいは税使用の転換)が必要になります。それを支払ってまで、あまりたくさんの人が使うことを予測することができない函館までの新幹線を引く意味はあるでしょうか。
もちろん象徴的な意味で、ようやく北海道が日本の一部になる(北海道では、今でも本州のことを「内地」と呼ぶお年寄りは多いのです)ということに投資するという理由は成り立ちうると思います。しかし、たとえそれを採用するとしても、もう一度道民全体に問い直して負担を覚悟しての新幹線誘致をするのかしないのを問い直すべきではないでしょうか。
新聞によれば、北海道では野党でも新幹線に反対する意識は弱いということですが、道民全体がどう考えるかについては未知数だと思いますので、ここでもう一度「道民30年の悲願」がほんとうかどうかの再確認をしてみるのが、本当の民主主義というものでしょう。
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by stochinai
| 2004-12-12 00:00
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