札幌は深い雪に覆われた冬から一転して急速に初夏へと向かっています。庭の手入れをしていると、こぼれ種からたくさんの芽が出ているのを発見します。
一年草の多くは、花を咲かせ枯れてしまう前にたくさんの種を散らします。厳しい冬を越えて春になっても、種の多くは芽生えることもなく死んでしまうでしょう。たとえ幸運に恵まれ芽を出すことができたとしても、その多くが環境に恵まれずに成長することもできずに枯れてしまいます。しかし、ごくごく少数だとしても、幸運なものは昨年花を咲かせた親よりも立派にぐんぐんと育っていきます。
同じような資質を持った種であるにもかかわらず、芽を出した環境の差が原因で非常に大きな差を持ってしまうのは、運命のいたずらと言わざるを得ませんが、逆に考えると将来の環境を予測して種を撒く場所をコントロールすることのできない植物は、たくさんの種をいろいろな場所にまき散らし、そのうちのいくつかが幸運に恵まれるであろうことに期待する生き方をしています。
逆に言うと、こぼれ種から立派な植物が育った場所こそが、彼らの生育にもっとも適した場所であるということがわかります。彼らの好きな環境を、彼らから教わることのできる貴重な機会でもあります。
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さて、今日5月5日は男の子の節句、3月3日は女の子の節句ということで、4月4日をおかまの節句にしようという提案がありますが、真剣に検討されたという話は聞いたことがありません。そのような話を真剣に楽しむというような姿勢が、我々日本人に欠けている資質のひとつだなあと感じる今日この頃です。
まじめなことは決して悪いことだとは思いませんが、時には公的な場ですらまじめにふざけるということがあってもいいのだと思います。その時に必要なことは、場の状況を正確に読み、的確にレスポンスするということでしょう。
逆に、緊急を要する状況に遭遇した時には、すべての予定をキャンセルして協力することも、社会生活をしている人間として求められているマナーではないでしょうか。
毎日のように次々と出てくる、コメントすることすら馬鹿馬鹿しくなるような、お粗末なJR西日本を巡る事例は、単にその会社が抱える問題というよりは、かなり多くの日本人が人間としての最低のマナーをしつけられて大人になることができていないという、極めて深刻な病変を示す症状なのではないかと思えてなりません。
JR西日本を叩くのも結構なのですが、西日本叩きの前線にいるマスコミの記者達だって取材が終わったらボーリングや飲み会に行ったりしないのでしょうか。また、当日の事故現場であまりの惨状に取材を放棄して人命救助に参加したマスコミ記者というものはどのくらいいたのでしょうか。この瞬間にも会社や役所の不正を知りながら、告発することもなく一緒に不正を隠そうとしている人が、この国全体でどのくらいいるのかと想像すると、JRばかりを責めても何も変わらないのではないかと思えてきます。
現時点では不正の嵐に隠れて、それほど大きく報道されてはいませんが、現場周辺の市民の多くが負傷者の救援に非常に大きな貢献をしたということです。当事者の無責任を考えると無関係の人々の信じられないくらい献身的なボランティア活動の話を聞くと、ほんとうにいろいろな人がいるものだという感慨に打たれます。
どうして、このような異なる行動パターンを持った人が存在しているのでしょうか。植物の種と同じように、人間も置かれた環境によっていろんな運命にもてあそばれるのかもしれません。そしてその運命の結果として、様々な人が生み出されてくるのだとしたら、たくさんの「ちょっとおかしい」人々を生み出した環境、ごくごく少数ではあっても「素晴らしい」人々を生み出した環境といったものがいったいどんなものだったのかを、振り返ることには、大きな意味があるでしょう。
ある会社に所属する人々が、同じような行動パターンを示しているのだとしたら、やはりその会社という環境を考え直すことが必要でしょう。そして原因と思われるものが明らかになったならば、改善することも可能なのだと思います。もしかすると、それが会社というような単位ではなく、日本という大きなレベルの環境が問題を抱えていることが明らかになったならば、とるべき道は日本そのものを変えることしかないのだと思います。
それができないならば、我々は日本とともに滅びることを受け入れるしかないでしょう。
そして、さらに問題となっている環境がグローバルな世界全体ということが明らかになり、それを修復することができないということならば、人類の滅亡を受け入れるしかなくなるのでしょう。
何をそこまで話を大きくすることはないだろうと思われる方も多いでしょうが、そのくらいの想像力を持つことが目の前にある危機の乗り越える力となるのではないでしょうか。