5号館を出て

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大学にコンビニ

 今日はこれから忘年会なので、「つぶやき」は休刊にしようかと思ったのですが、京都新聞の国立大初のコンビニ 京都大でオープンのニュースが気になりました。

 そう言えば、東広島にある広島大のキャンパス内にはマクドナルドがあった記憶があります。やっぱりど真ん中にありました。

 京大では開店前から話題になっていたようで、学内新聞が事前に記事を書いています。吉田南構内にコンビニ出店がそれです。大学と、既存の生協と、ローソンの三者三様の思惑が絡み合っている様子が見て取れます。

 開店の日にもローソンがオープンと、改めてニュースになっています。

 24時間営業はしないものの、午前7時から午後9時までと長く設定し、「やや値段が高い」と言われながらも生協との時間的住み分けを狙っているところが見て取れます。

 ただし、「大学構内ということを考慮し、酒や成人雑誌は販売しない」とのことですが、北大生協でも酒は売っています。酒を売らない理由は別のところにあるのかもしれません。

 大学も法人化したので、「工事費用はローソン持ち」で「一定の利益が出れば寄付を受ける」という話は、喉から手が出るような話なのかもしれません。しかし、ローソンだって私企業ですから、儲けの出ないことはやりません。学内に出店させるのでしたら、あくまでも学生や教員の利益を損ねないようなしたたかさを持って交渉に当たって欲しいものです。

 法人化してからの国立大学は、やたらとみみっちくなっていることは事実で、ある意味では健全な節約精神と言えなくもないのですが、つい昨日まで中央官庁の官僚や国会議員と同じく、一円でも多く国から資金を調達し、もらったものは余さず使うという生活をしていた大学ですので、正直に申しあげてお金の使い方はまだまだ幼稚な感が否めません。

 学内に民間企業がどんどん入ってくるのは構わないと思いますが、彼らの狡猾さにコロリとだまされて、気がついてみたら生協がつぶれ、あらゆるものの値段が高くなってしまっていたなどということにならないように気をつけたいものです。
# by stochinai | 2004-12-14 00:00 | 大学・高等教育 | Comments(0)

新聞記者の原著論文

 共同通信の記者さん達が、署名入りで「ニュース日記」というブログを運用しています。

 今日から新しいメンバーである相馬さんという方が加わり、早速書いているのですが、これがなんとも衝撃的な記事です。

 「20年前の男」というタイトルで書かれた記事を読んでいただければわかるのですが、最近の日朝政府間協議で北朝鮮側の重要な人間として活躍している宋日昊(ソン・イルホ)氏の20年前の姿が生き生きと描写されています。

 しかも、20年前と言えば、「中学1年生の13歳だった横田めぐみさんが、学校からの帰宅途中に拉致されたのが1977年11月」なので、記者が宋氏と会ったのは、めぐみさんが「両親から引き離されてすでに7年を経過、ちょうど20歳になる直前だったわけだ。当然、くだんの宋氏はめぐみさんたち拉致被害者の存在を知っていただろう。今から思うと、はらわたが煮えくり返る」と書いています。非常に力のある「ニュース」だと思いました。なぜ、これがニュースではなくブログなのでしょう。

 逆に、最近のマスコミのニュースでは、どこの社もあたらずさわらずの伝聞記事が多く「関係者の話では」とか「政府の発表によると」とかしか書かれていないので、読んでみてもそれが本当か嘘かもわからなければ、良く考えるとニュース・ソースすらはっきりとしないものが多いように思われます。

 そんな中で、この記事のような記者が見聞きした生々しい一次情報が語られると、ニュースはまだ死んでいないと思えるのです。

 しかし、今やほとんどのニュースがどこかの誰かの発表や伝聞になってしまって「らしい」とか「話している」とか「明らかになった」とか「明らかにした」とか「したという」とかで結ばれるものが多いのです。ちなみに、この文末は、12月13日午後9時7分現在の、朝日コムのトップ5ニュースの第一パラグラフの文末をそのまま書き写したものです。かろうじて、第6番目のニュースだけが「は始めて」と断定しています。

 考えてみれば、事件の現場にいるはずの記者は動きつつある事件そのものに接することができる可能性も高く、我々読者はそれも期待して報道のニュースを読み、見聞きするのだと思います。

 そして、報道記者が特別の権利を持って事件現場に近づけるのは、一次情報を読者に伝えることが、市民の権利として認められてきたからだと思います。だとするならば、やはり記者の任務は、現場に行って生の一次情報に接し、それをオリジナルな「原著論文」として伝えることに他ならないと思います。

 日本人は現在、サマワに派遣された自衛隊の状況を伝える報道記者を持っていないはずです。つまり、我々はサマワの「現実」は知らないということではないでしょうか。そうした状況で、自衛隊派遣やその延長の是非について正しい判断をできるはずはないと思います。

 その意味で、天木直人氏のブログに書かれていたイラクから帰国した自衛官の講演には驚きました。第一次イラク派兵部隊を率いて帰任した番匠幸一郎一佐(現陸上幕僚監部広報室長)が次のように語ったというのです。自衛隊が派遣される前の訓練で『・・・5~10年分の弾を一、二ヶ月で撃たせた。これ以上撃てないというぐらい徹底して撃たせた・・・』というのです。

 こんな調子なら、実はサマワでもかなりぶっ放しているのではないか、という疑いも生じますが、それを見ている報道がいるのでしょうか。イラク入りして殺された青年は、そんな状況に我慢ができなくなったのかもしれません。そうだとすると、「報道しない報道機関」が彼を死に追いやった責任の一端を負わなければならないのだと思います。
# by stochinai | 2004-12-13 00:00 | つぶやき | Comments(0)

北海道に新幹線

 新幹線が函館まで延長されることが、政府・与党の整備新幹線検討委員会のワーキンググループの会合で決まったというニュースが10日に出ました。今の日本の政治状況では、政府・与党である自民党と公明党が決めたことは、基本的にすべて実行されることになっていますので、これは決定ということと同じです。

 北海道にも新幹線を整備するということは、1970年に全国新幹線鉄道整備法ができた頃から想定されており、1972年には旭川までが計画されていましたが、翌1973年に終点が札幌ということに変更されています。いずれにしても、計画は実行に至らず30年以上が経過しました。

 その間に、JRの民営化やバブル経済の崩壊、さらには航空料金の変動料金設定などが展開され、北海道から本州へ渡る主要な手段は陸上に頼らなくなってきている現実があります。

 個人的には、札幌から東京の寝台列車である北斗星や大阪へつながるトワイライト・エクスプレスなどが好きだったのですが、時間がかかる上に料金が高く、最近では出張の手段として利用することすら許可されなくなっています。

 そういう現実がありますから、30年以上も前に計画された新幹線を北海道まで引っ張ってくることの意味も変わってきているはずなのに、北海道では選挙がある度に自民党候補者の公約には必ずといって良いほど「新幹線の早期着工」が載せられて来ているという特殊な事情もあります。

 今の高橋知事に限らず知事になった人は常に「道民の悲願」としての新幹線工事着工という言葉を使い続けてきました。

 新幹線の延長により、冷え込んでいる北海道の経済が、完成までの大きな公共工事の投資効果と、完成後の交通の発達による経済効果があると考えてのことでしょうが、30年前とは明らかに状況が異なる現在では、その内容についての詳細な再検討を要求されているはずです。

 30年間もの間、求め続けてきたことだから、実現することになったというニュースに興奮する人がいても不思議はありませんが、この30年の間に生まれた道民の約3分の1の人たちにとっては、新幹線の開通は悲願でも何でもないのではないでしょうか。

 さらに現実的な問題を考えてみましょう。北海道分(新青森から新函館まで)の工事予算は5000億円なのだそうですが、そのうち660億円を北海道(民)が負担しなければならないようです。10年後開業するとして、開業後30年で返還しなければならないので、40年間で返せば良いということなのですが、試算(私はまったく理解していません)によると、ピーク時には年間で30億円を支払わなくてはないこともあるのだそうです。

 道民の数は500万人と良くいわれますので、1万人あたり1億円くらいの負担ということになるのでしょうか。概算して1人1万円くらいとすると、平均的4人家族1件あたり4万円の増税(あるいは税不足・あるいは税使用の転換)が必要になります。それを支払ってまで、あまりたくさんの人が使うことを予測することができない函館までの新幹線を引く意味はあるでしょうか。

 もちろん象徴的な意味で、ようやく北海道が日本の一部になる(北海道では、今でも本州のことを「内地」と呼ぶお年寄りは多いのです)ということに投資するという理由は成り立ちうると思います。しかし、たとえそれを採用するとしても、もう一度道民全体に問い直して負担を覚悟しての新幹線誘致をするのかしないのを問い直すべきではないでしょうか。

 新聞によれば、北海道では野党でも新幹線に反対する意識は弱いということですが、道民全体がどう考えるかについては未知数だと思いますので、ここでもう一度「道民30年の悲願」がほんとうかどうかの再確認をしてみるのが、本当の民主主義というものでしょう。
# by stochinai | 2004-12-12 00:00 | つぶやき | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


by stochinai