ふ~、ようやく卒業研究発表会が終了しました。
これで、先月末から博士号検定最終試験、修士研究発表会と続いてきた卒業のための行事の派手なところがすべて終了と言うことになります。
実際に単位の認定をしたりする作業はまだ残っていますが、あとはセレモニーみたいなものなので、一応肩のこる作業は山を越えたことになります。
大変だ大変だとみんな言っていますが、昔から比べるとずいぶん楽になってきているはずなのです。例えば、博士だと昔は大学院に入って5年で取る人などはほとんどおらず、博士号を申請するまでには5本くらいの論文を書いているのが普通でした。修士論文もすべて英語で書くことを要求されていましたので、修士卒業生を3人も抱えてしまったら(経験あります)過労死しないのが不思議な年末年始になります。そして、卒業研究も論文の形で提出しなければなりませんでした。
それが、今は博士も大学院5年間で出る人がメジャーになり、論文も1本以上あれば良いということなので1・2本の人が多くなり、修士論文も無理に英語で書かなくても日本語でもOKということになり、卒論もポスター発表をすれば無理に書かなくても良いということになっているのです。
それにもかかわらずやはり大変なのは、学生も大学院生も大量にいるからなのだと思います。我々も大変と言えば大変ですが、学生はそれだけしっかりとした指導を受けられなくなっているということになるので、迷惑と言えば迷惑を被っていると思います。そういう意味では、学生も昔より大変な状況に置かれているのかもしれません。昔の学生はしごかれたかもしれませんが、少人数でしっかりとした教育を受けていました。
それを大学生も大学院生もたくさん増やして、マスとして教育しようということになりましたから、ある意味で教える方も教えられる方も大変になっているのだと思います。なんで、こんなことになったのかと不思議に思うかも知れませんが、政治や経済のレベルから眺めると、今のやり方が昔よりはずっと良いということになっていると思います。
つまり、大学や大学院を出た人がたくさんいるということは、たとえ平均値が下がったとしても、政治や経済に必要な「優秀な人材」の絶対数は確実に増加しているので、適当にあるいは過当に競争させればさせるほど、彼らから見て望ましい人材を確保しやすくなっているのです。
ですから、政府は政策を誤ったと見る見方は誤っていて、政府は着々と望ましい方向へと大学を変えていると見るべきなのかも知れません。
資本主義下での政治や経済から見ると、大学は大学生の幸せのためにあるわけではなく、政治や経済を支える人材を供給する源として位置づけられていますので、実は文科省のやっていることもそれなりの計算があってのことなのだと思います。
もしも、この考え方が事実だとしたら、我々は政治に対して今までと異なる対応をすべきなのかもしれません。
検討を続けようと思います。