2005年 01月 11日
成人式
成人式という行事がいつから始まったのか知りませんが、20歳の若者が主に和風のおめかしをして七五三のような雰囲気の日になったのはそんなに古いことではないような気がします。
私が20歳になった頃は、こうした官制の行事に参加する若者は今ほど多くなく、参加する人は比較的まじめで素直な人たちが多かったと思われるので、問題が起こるなどということは想像もできませんでしたし、記憶にもありません。しかし、最近の若者は比較的屈託なく中学校の同窓会のような雰囲気で集まり、時にハメをはずすようなことも起こるようです。
義務教育の延長のような全員参加で行われる式で、お役所の偉い方の挨拶などを聞かせようとしても、我慢して聞くことのできない「子どもたち」が多いことは容易に想像できます。
少子化の中で成人式に参加する「子ども」の比率がどんどん上がってきたのと、問題が起こり始めたことが関係しているような気もするのですが、どうでしょうか。
そう考えると、中学の同窓生が校舎や校長・教頭や先生方のいない状態で再び一カ所に集められるということは、中学校時代は抑圧され続けてきたという意識を持った子どもたちに、絶好のリベンジの機会を与えているということなのかもしれないと思えてきました。
中学生の時には子どもたちにも肉体的・精神的・知性的にまだまだ力がなく、気持ちとしては反発したいと思っていても、いろんな意味で「学校側」に押さえつけられたまま卒業させられてしまったと思っている子どもたちは、意外と多いと思います。
中学校を卒業してから、まだ4-5年しか経っていませんから、中学校と同じ顔ぶれの仲間が管理者としての先生方がいない状況で集まったところを想像してみると、むしろ何かが起こることの方があたりまえという気もしてきます。
主催者側でも、問題を避けるためにくだらない祝辞を最小限に切り上げたり、子どもに迎合するような企画(ディズニー・ショー、ビンゴ・ゲーム、芸能人など)で、騒ぐきっかけを与えないようにしているせいもあって、だんだんと騒ぎも起こらなくなって来ているようですが、子どもの社会で起こる問題に対していつでもこうして対症療法を施して、問題を抑えることだけを繰り返していくのは、必ずしも正しい対応ではないのかもしれません。
もし、私の考えが正しいとしたら、中学生の段階で子どもたちの不満を解消するようにすべきであって、それを解決せずに押さえ込んでしまうことが成人式の爆発を生んでいる可能性があります。
そして、ここでまた原因を解決することなく成人式の爆発を押さえ込んでしまったら、次は社会的犯罪の増加という形でゆがみが発現してきてしまうという恐れがあるのではないでしょうか。
そう考えると、荒れる中学生の出現は小学生時代を不満足に送った子どもたちの抗議であり、小学校時代に問題を抱える子どもたちの存在も幼児の時代の養育の失敗のツケなのかもしれません。
さらに考えると、幼児がうまく育てられていないことの原因の一部は、その親たちがきちんと成熟していないことにあるのかもしれません。親をきちんと成熟させることができなかったのは、彼らを育てた前の時代の親と社会の責任でしょう。こうして我々の社会は、戦後の60年を失敗してきてしまったということなのかもしれません。
極端に単純化しすぎてしまってはいることは認めますが、まったくの妄想と切り捨ててしまえないものを含んだ話だとは思います。
私が20歳になった頃は、こうした官制の行事に参加する若者は今ほど多くなく、参加する人は比較的まじめで素直な人たちが多かったと思われるので、問題が起こるなどということは想像もできませんでしたし、記憶にもありません。しかし、最近の若者は比較的屈託なく中学校の同窓会のような雰囲気で集まり、時にハメをはずすようなことも起こるようです。
義務教育の延長のような全員参加で行われる式で、お役所の偉い方の挨拶などを聞かせようとしても、我慢して聞くことのできない「子どもたち」が多いことは容易に想像できます。
少子化の中で成人式に参加する「子ども」の比率がどんどん上がってきたのと、問題が起こり始めたことが関係しているような気もするのですが、どうでしょうか。
そう考えると、中学の同窓生が校舎や校長・教頭や先生方のいない状態で再び一カ所に集められるということは、中学校時代は抑圧され続けてきたという意識を持った子どもたちに、絶好のリベンジの機会を与えているということなのかもしれないと思えてきました。
中学生の時には子どもたちにも肉体的・精神的・知性的にまだまだ力がなく、気持ちとしては反発したいと思っていても、いろんな意味で「学校側」に押さえつけられたまま卒業させられてしまったと思っている子どもたちは、意外と多いと思います。
中学校を卒業してから、まだ4-5年しか経っていませんから、中学校と同じ顔ぶれの仲間が管理者としての先生方がいない状況で集まったところを想像してみると、むしろ何かが起こることの方があたりまえという気もしてきます。
主催者側でも、問題を避けるためにくだらない祝辞を最小限に切り上げたり、子どもに迎合するような企画(ディズニー・ショー、ビンゴ・ゲーム、芸能人など)で、騒ぐきっかけを与えないようにしているせいもあって、だんだんと騒ぎも起こらなくなって来ているようですが、子どもの社会で起こる問題に対していつでもこうして対症療法を施して、問題を抑えることだけを繰り返していくのは、必ずしも正しい対応ではないのかもしれません。
もし、私の考えが正しいとしたら、中学生の段階で子どもたちの不満を解消するようにすべきであって、それを解決せずに押さえ込んでしまうことが成人式の爆発を生んでいる可能性があります。
そして、ここでまた原因を解決することなく成人式の爆発を押さえ込んでしまったら、次は社会的犯罪の増加という形でゆがみが発現してきてしまうという恐れがあるのではないでしょうか。
そう考えると、荒れる中学生の出現は小学生時代を不満足に送った子どもたちの抗議であり、小学校時代に問題を抱える子どもたちの存在も幼児の時代の養育の失敗のツケなのかもしれません。
さらに考えると、幼児がうまく育てられていないことの原因の一部は、その親たちがきちんと成熟していないことにあるのかもしれません。親をきちんと成熟させることができなかったのは、彼らを育てた前の時代の親と社会の責任でしょう。こうして我々の社会は、戦後の60年を失敗してきてしまったということなのかもしれません。
極端に単純化しすぎてしまってはいることは認めますが、まったくの妄想と切り捨ててしまえないものを含んだ話だとは思います。
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by stochinai
| 2005-01-11 00:24
| 教育
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