2004年 12月 25日
論文ねつ造
すでに昨日の夕刊に載っていたようですが、理研の研究者による「論文ねつ造事件」が発覚しました。共同通信の記事は「研究者2人がデータ改ざん 理研、実験の写真を加工」となっていますが、今回問題となった問題の論文は6人の共著論文で、2003年に出版されています。
しかも、同様なデータ改竄によってねつ造された論文は1998年から3本も出されたことになっています。いちおう理研による報道発表が出されていますので、それをもとに考えてみたいと思います。
まず、今回の事件が内部告発によって発覚したことがわかります。「平成16年8月4日、内部研究者より、研究論文の不正発表疑惑について指摘があった」と書かれています。告発できるくらい近くにいた人というのは、同じ研究グループの中にいたのかもしれません。調査委員会を作って検討した結果 、2003年論文、1999年論文(理研が元記事を削除しているため、論文書誌データを削除しました:2010/5/29)および1998年に発表された他の1篇の研究論文にデータねつ造があったとされています。(最後の1件は、可能性が高いとされており、断定はされていません。)
理研として恥ずかしいのは、1年前に問題の2003年論文が出た時に記者会見をしていることです。「**********」(理化学研究所及び科学技術振興機構の共同発表)という新聞記事が出ているはずですが、今回の発表と同時にその記事を取り下げると発表しています。
理研としては、今回の問題を科学研究者のモラルの問題だけに矮小化したいのだと思います。もちろん、不正を働いた科学者がもっとも悪いことは事実ですが、高等教育を受けた科学研究者が不正を働くということは、ある意味で「確信犯」ですから、なぜそのような行動に出たのかを考えると、現在の科学研究および科学研究者の置かれた状況が見えてくると思います。そうした状況を作っている、日本の科学政策の問題点が明らかになってきます。
理研といえば間違いなく日本の科学研究をリードしている先端研究所であり、研究者にとってはふんだんな研究費とたくさんの研究支援者を使って思った通りの研究ができる夢のような場所であり、各地の大学院で博士を取った若者にとっては比較的高額な給料をもらって博士研究員を続け、場合によってはそこで業績をあげることでステップアップを図ることのできるチャンスが得られる場所です。
しかし、裏返すと研究費に応じたあるいはそれ以上の「社会的にインパクトのある研究」を要求されるシビアな職場でもあります。今回の事件にも出てくる「新聞に載るような研究」が強く求められる場ということもできるでしょう。
新聞に載るような研究をすることが、新たな研究費獲得や自分の昇格(あるいは昇級?)に直接響いてくるというようなことがあるかどうかははっきりしませんが、なんとなく関係があるのではないか、という暗黙の了解はあるのだと思います。今回「事件」を起こした主な2人の肩書きが、副主任研究員と5年時限で採用されていた独立主幹研究員であるということは、決してたまたまそうだったのだとは思えません。
副主任研究員は、主任研究員あるいはどこかの大学の教授になりたかったのかも知れません。時限の研究員は、もう1回の5年契約の更改を控えていたのかも知れませんし、どこかの大学か研究所に応募したかったということもあるでしょう。いずれにしても、研究者の評価およびその人の将来が「新聞に載るような研究発表」によって大きく左右される現実があるとするならば、今回のような事件はこれからも起こり続けると確信します。
こうした問題の原因の一つに、研究における歪んだ「競争」のあり方があるのだと思います。日本では、最近になって急に大学や研究社会周辺に「競争」というシステムが導入されて来ましたが、競争をする前提となる「フェアな精神」というものは幼い子どもの頃から時間をかけて教え込まれなければ身に付かないものでしょう。
競争自身が間違っていることだとは思いませんが、競争をする人間がフェアに戦うとはどういうことかを理解しておらず、競争させて選抜させる側(行政など)がしっかりとした判断力を持っていない場合には、往々にして現実の日本で起こっているように評価基準が素人であるマスコミに取り上げられるかどうかなどということが大きな力を持ってしまうことが起こるのだと思います。
そうなると、どんな方法を使ってでも新聞に載るような研究論文および発表をすることが、勝利への手段だと勘違いされるようなことが起こりうると思います。そして、ポスドクの非常勤研究員、昇格を望む常勤の研究員、政府から評価されたい研究所そのもの、などなどが全員同じ土俵の上で踊りを踊り始めることになります。
たとえ、最初の一歩が嘘だったとしても踊りは始まることがあり得るのです。特に、科学研究などという恐ろしくプライベートな行為の上に成り立っている作業では、ほんのちょっとした悪魔の囁きに一瞬だけ負けただけで、周りの全員が踊りを始めてしまったら、翌朝夢から覚めたとしても動き始めた状況を止めることなど出来なくなってしまうのでしょう。
今回の事件で「処分」された人たちは、ひょっとするとこれでようやく楽になれるとホッとしているのかもしれません。
最大の犯人は政治なのだということを、どのくらいの人が理解してくれるか、今の私は大いに懐疑的です。
しかも、同様なデータ改竄によってねつ造された論文は1998年から3本も出されたことになっています。いちおう理研による報道発表が出されていますので、それをもとに考えてみたいと思います。
まず、今回の事件が内部告発によって発覚したことがわかります。「平成16年8月4日、内部研究者より、研究論文の不正発表疑惑について指摘があった」と書かれています。告発できるくらい近くにいた人というのは、同じ研究グループの中にいたのかもしれません。調査委員会を作って検討した結果 、2003年論文、1999年論文(理研が元記事を削除しているため、論文書誌データを削除しました:2010/5/29)および1998年に発表された他の1篇の研究論文にデータねつ造があったとされています。(最後の1件は、可能性が高いとされており、断定はされていません。)
理研として恥ずかしいのは、1年前に問題の2003年論文が出た時に記者会見をしていることです。「**********」(理化学研究所及び科学技術振興機構の共同発表)という新聞記事が出ているはずですが、今回の発表と同時にその記事を取り下げると発表しています。
理研としては、今回の問題を科学研究者のモラルの問題だけに矮小化したいのだと思います。もちろん、不正を働いた科学者がもっとも悪いことは事実ですが、高等教育を受けた科学研究者が不正を働くということは、ある意味で「確信犯」ですから、なぜそのような行動に出たのかを考えると、現在の科学研究および科学研究者の置かれた状況が見えてくると思います。そうした状況を作っている、日本の科学政策の問題点が明らかになってきます。
理研といえば間違いなく日本の科学研究をリードしている先端研究所であり、研究者にとってはふんだんな研究費とたくさんの研究支援者を使って思った通りの研究ができる夢のような場所であり、各地の大学院で博士を取った若者にとっては比較的高額な給料をもらって博士研究員を続け、場合によってはそこで業績をあげることでステップアップを図ることのできるチャンスが得られる場所です。
しかし、裏返すと研究費に応じたあるいはそれ以上の「社会的にインパクトのある研究」を要求されるシビアな職場でもあります。今回の事件にも出てくる「新聞に載るような研究」が強く求められる場ということもできるでしょう。
新聞に載るような研究をすることが、新たな研究費獲得や自分の昇格(あるいは昇級?)に直接響いてくるというようなことがあるかどうかははっきりしませんが、なんとなく関係があるのではないか、という暗黙の了解はあるのだと思います。今回「事件」を起こした主な2人の肩書きが、副主任研究員と5年時限で採用されていた独立主幹研究員であるということは、決してたまたまそうだったのだとは思えません。
副主任研究員は、主任研究員あるいはどこかの大学の教授になりたかったのかも知れません。時限の研究員は、もう1回の5年契約の更改を控えていたのかも知れませんし、どこかの大学か研究所に応募したかったということもあるでしょう。いずれにしても、研究者の評価およびその人の将来が「新聞に載るような研究発表」によって大きく左右される現実があるとするならば、今回のような事件はこれからも起こり続けると確信します。
こうした問題の原因の一つに、研究における歪んだ「競争」のあり方があるのだと思います。日本では、最近になって急に大学や研究社会周辺に「競争」というシステムが導入されて来ましたが、競争をする前提となる「フェアな精神」というものは幼い子どもの頃から時間をかけて教え込まれなければ身に付かないものでしょう。
競争自身が間違っていることだとは思いませんが、競争をする人間がフェアに戦うとはどういうことかを理解しておらず、競争させて選抜させる側(行政など)がしっかりとした判断力を持っていない場合には、往々にして現実の日本で起こっているように評価基準が素人であるマスコミに取り上げられるかどうかなどということが大きな力を持ってしまうことが起こるのだと思います。
そうなると、どんな方法を使ってでも新聞に載るような研究論文および発表をすることが、勝利への手段だと勘違いされるようなことが起こりうると思います。そして、ポスドクの非常勤研究員、昇格を望む常勤の研究員、政府から評価されたい研究所そのもの、などなどが全員同じ土俵の上で踊りを踊り始めることになります。
たとえ、最初の一歩が嘘だったとしても踊りは始まることがあり得るのです。特に、科学研究などという恐ろしくプライベートな行為の上に成り立っている作業では、ほんのちょっとした悪魔の囁きに一瞬だけ負けただけで、周りの全員が踊りを始めてしまったら、翌朝夢から覚めたとしても動き始めた状況を止めることなど出来なくなってしまうのでしょう。
今回の事件で「処分」された人たちは、ひょっとするとこれでようやく楽になれるとホッとしているのかもしれません。
最大の犯人は政治なのだということを、どのくらいの人が理解してくれるか、今の私は大いに懐疑的です。
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by stochinai
| 2004-12-25 00:00
| 生物学
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