5号館を出て

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イチョウの黄葉

 今日は土曜日だというのに(土曜日だからなのか)、キャンパスにはたくさんの人がウロウロしていました。立派な望遠レンズをつけた一眼レフをかかえた集団もいました。なるほど、みなさんは北大の木々の紅葉や黄葉を見にいらしていたのですね。

 確かに工学部前のイチョウ並木は今が見頃でした。

 例によって、集まっているほとんどの人は中年から高年の方々で、若者がほとんどいません。美しい落ち葉を踏みしめながら、まだ木に残っている赤や黄色の美しい色の葉をながめるなどというのは、考えようによっては絶好のデートコースであると思われるのに、それとおぼしき若いカップルはほとんど見あたりません。逆に、中高年の方々の多くは、男女の混合集団やカップルが多く、季節と戯れながら人生を楽しんでいるように見えました。

 若者はどこにいるのでしょう。少子高齢化の中で、デートする人間の数も減っているということなのでしょうか。なんか、この国の将来が危ういなあと、また思わされてしまいました。

 今日、驚いたことがもう一つあります。今も続いているのですが、なんとあのNHKが民放でおなじみの「愛は世界を救う」タイプの24時間連続放送キャンペーンをやっているのです。

 私は、少し前からNHKでやっている、各地方ごとに現地にタレントを派遣して、そこの地方の人にも参加してもらいながら、延々と雑談を垂れ流すという「放送」は、金を取って営業している放送局としては、あまりにも手抜きで質の低い物だと苦々しく思っておりました。

 民放がやっている24時間あるいは48時間のキャンペーン番組も、お金をかけずに番組を作るだけではなく、視聴者からお金を集めるという不思議な代物です。民放では、視聴社からお金を取っているわけではありませんので、まあ勝手にやってよと思っていたのですが、それを我々から法律によって強制的にお金を取っている天下のNHKがやることには、「ちょっと待ってよ」という気になります。

 まあ、ちょっと見た感じでは民放のようにワイワイとお祭り騒ぎをやるようなキャンペーン番組ではなさそうなのですが、それにしても民放が始めた(実は例によってアメリカなどに元ネタがありそうな気はしますが)放送のアイディアを丸飲みするような企画をやっている公共放送を見ていると、情けない感じがします。

 民間が長年かけて開発した宅急便業界のノウハウを丸飲みして反撃に出た郵政公社のことを思い出します。

 どうして日本の「官」というものは、このように能がなく恥知らずなのでしょう。丸飲み、丸投げ、総取りの世界です。

 税金あるいは、受信料などという税金と同じものを出発点にして業務をやっているのですから、民間よりもゆっくりと時間をかけて良いものが出せるはずなのに、この現状はいったいどうなってるんだ、と叫びたくもなりますが、「政治なんて所詮、税金から合法的にできるだけ多くの金をピンハネするための装置にすぎない」と思っているような、現場にいる人間にとっては、馬の耳に念仏なんでしょうね。
# by stochinai | 2004-11-06 17:52 | つぶやき | Comments(0)

忠臣蔵

 さっきカエルの水換えをしながら、横でかかっていたテレビを見ていたら(うちの研究室の動物飼育室にはゴミ捨てから拾ってきたテレビがあります)、忠臣蔵をやっていました。

 毎年、年末になると忠臣蔵と、ベートーベンの第九と、紅白歌合戦というのが日本の年末の風物詩となっていますが、12月の討ち入り(14日)の日までに間に合わせようと、今から数回の連続ものでやろうというのが、この番組なのでしょうか。

 もう、何回も見ている討ち入りのシーンなのですが、吉良上野介の首を切り落とす話になって、ちょっと考え込んでしまいました。

 もちろん、先日イラクで首を切り落とされるという、現代の我々からするとかなり「残酷な」やり方で命を奪われてしまった香田さんのことが頭をよぎったからです。

 考えてみれば、日本でもほんの300年前(討ち入りは1702年)までは、首を切るなどということが平然とあるいは誇り高く行われており、(これを言うとまた大騒ぎする勢力もいそうですが)第二次世界大戦(ほんの60年前です)においてすら日本軍はあちこちで首を切るという殺し方を普通にやっていたと聞きます。

 しかも、忠臣蔵の場合などは切った首を戦利品のごとく、誇らしげに持ち歩いていたのではなかったでしょうか。

 2004年という時代において、首を切るという「処刑」を行っているザルカウィといういう人間に何の弁解も許されるはずはないと思うのですが、我々の国だってついこの間まで同じようなことをやっていたということを考えると、そうそう偉そうなことは言えない気がします。

 ついでに思い出してしまいましたが、アラブやチェチェンの抵抗勢力が良く使う「自爆テロ」という作戦だって、日本軍が発明したのではないかと思っています。

 私が子どもの頃は、半ば英雄として半ば犠牲者として「神風特攻隊」や「人間魚雷回天」の話を見聞きしたものです。敗戦の色が濃くなってきた日本軍が自爆攻撃というものを始めた話は、雑誌やテレビや映画などで繰り返し繰り返し、語られ続けていたように思います。

 自分の命を落とすことを前提に相手にダメージを与えるという攻撃方法は、欧米人には理解ができないため、大いに相手を威圧したものだと、日本人の勇ましさ(あるいは愚かしさ)の象徴として教えられたような気がします。

 日本人がやったら「特攻隊」で、アラブ人がやったら「自爆テロ」というのでは、なんともアンフェアだという気がしてなりません。こういうのをダブル・スタンダードというのでしょう。
# by stochinai | 2004-11-05 17:53 | つぶやき | Comments(0)

やっぱり選挙

 アメリカ大統領選挙は、ギリギリになってまた前回のようにもつれ込むかと思われましたが、ケリー陣営の賢明な判断で泥沼状態は回避されたようです。ビン・ラデン(ちょっと前までは、ビン・ラディンと発音する人が多かったようですが、最近はビン・ラデンと発音する人が多くなっていますね)の応援演説や、選挙直前にオハイオやフロリダで大量の選挙人が投票者名簿から削除されたなどという開発途上国のようなニュースを振りまきながらも、no more Bushではなくfour more yearsが達成されたようです。

 まあ、私個人の感想ですがアホなブッシュがもう4年やろうが、力のないケリーがやろうが、アメリカという国の方向性はそれほど変わらないだろうと思いますので、正直なところそれほどの感慨はありません。

 選挙民の選択にしても、全体で51%対48%とか書いてありましたので、アメリカ国内にとっても、どちらになっても状況はそう変わらないのだと思います。

 それよりも、今回のアメリカ大統領選挙で感じたことは、こんなに拮抗状態が激しい中で、国全体の舵取りをどちらかの人間に任せるという結論でいいのだろうか、ということです。今のアメリカでは、民主党も共和党もそれぞれの政策にそんなに大きな差がないことから、このような結果になったのかもしれませんが、それでも例えば妊娠中絶などに関しては、賛成と反対に分かれているようです。

 国のほぼ半分が賛成し、残りの半分が反対している事柄を、選挙で決まったからといって、どちらかの政策を実行するということは、約半分の国民の意思を完全に無視することになってしまいます。これで良いのでしょうか。

 というわけで、接戦の大統領選挙を見ていて感じたことのひとつは、もはや代表制の民主主義というものが政治を運用していく上で機能しなくなってきているのではないかということです。

 日本の場合だともっとそうですが、例えば30数パーセントの人しか投票しない選挙で、さらに30数パーセントの得票で国政を運営する政府を運用する権利が与えられます。絶対数では、わずかに国民の1割くらいの支持で政権が取れることになります。たとえ、投票しなかった人も投票した人と同じような意見分布を持っていると仮定しても、国民の過半数の支持を得ない政党や政治家が国政運営に強大な権力を持ってしまうのが、代表制民主主義だと思います。

 現在は、価値観が多様化している時代です。たったひとつの政党が、権力総取りで政府を形成するという制度自体が問題とされなければならないのではないでしょうか。

 私は昔から、直接民主主義だけが本当の民主主義だと思っていますので、少しでも理想の民主主義に近づけようと思ったら、やはり小さな政府、地方分権政治が良いと思います。

 確かに、小さくわけてしまうと大きな軍隊や大規模な交通網整備などは難しくなるかもしれませんが、そんなものが本当に人を幸せにしてくれてきたという証拠があるのでしょうか。

 大きなアメリカで、1億2千万人もの人が投票して、たったひとりの人をほんの少しの差で選び出した大統領選挙に対して、バベルの塔を作った愚かな人間の所業を思い出したのは、私ひとりではないと思いたいところです。
# by stochinai | 2004-11-04 17:54 | つぶやき | Comments(0)

日の光今朝や鰯のかしらより            蕪村


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